ジェームズ・L・ノーランjr著『原爆投下、米国人医師は何を見たか』(藤沢町子訳、原書房、2022・7)

 著者は社会学者で、マンハッタン計画とそれによる最初の原爆実験に参加し、原爆投下直後の広島、長崎をも訪れている医学者、ジェームズ・F・ノーラン(1915~1983)の孫である。父が亡くなった際に母が祖父の残した箱を携えて著者を訪ねてきた。その箱には、祖父の原爆とのかかわりを詳細に明かす記録や資料、写真などが詰まっていた。これを機に、祖父と原爆とのかかわりを丹念に調べ、多くの人々の協力を得て仕上げたのがこの著作である。原著は、2020年に刊行され、原題はATOMIC DOCTOR Conscience and Complicity at the Dawn of the Nuclear Ageである。

 祖父のノーランはもともと産婦人科の医師でX線を使った治療にたずさわっていたのを見込まれて、人類史上最初の原爆製造計画、マンハッタン計画への参加を要請され、幾人かの医師とともにロスアラモスの実験場に赴く。マンハッタン計画は、もともとナチス・ドイツによる原爆開発の情報が知ったオッペンハイマーアインシュタインら物理学者からの提起で始まった反ナチの事業である。しかし、原爆は大量殺人の兵器であって、人間の命と健康を守る使命を担う医師の使命とは本来相容れない事業といえよう。ノーランの場合、マンハッタン計画にたずさわる人たちの健康をまもることが第一任務だが、同時に放射線の専門家として原爆製造そのものに深くかかわることになる。ここに、人殺しを専門とする軍人や核分列という科学現象に何より関心をもつ物理学者らとは本質的に異質の、医学者ならではの本性があった。これが、ノーランらがマンハッタンにおける軍事優先、知的探求優先の主流とことあるごとに齟齬をきたしたり、医学の立場からの彼らの提言や忠告が不当に無視され、軽蔑され、あるいは医学者の側からの不本意な迎合や言い逃れを生み出すことにもなる。それだけに、原爆の開発と使用に医学者の目から新たな光を当てることにもなる。ここに、本書の他に替えがたい特質があると言えよう。

 人類初の原爆・トリニティの実験が一ヵ月以内に迫る1945年6月17日、医学博士であるノーランは、マンハッタン計画に参加している他の医師らとともに作成した原子爆弾から生じうる放射性降下物についての懸念を表明した報告書を、指揮官のグローブズ将軍に提出する。実験の安全対策と非難手順を承認してもらうためである。しかし、将軍からはけんもほろろの対応しか返ってこなかった。将軍の関心は、実験にともなう秘密保全のほうに向けられていた。同年7月、二つの原発の実験が行われる。医師たちの任務の一つは、この実験による放射線量の推定と、その人体への許容限界をさだめることだが、しかし、なにしろ人類史上初めての実験で、見当もつかない。許容放射線は「10分の1レントゲン」としたとノーランは記憶している。

 ノーランはその後、日本への投下のためにウラン爆弾をロスアラモスからテニアン島に運ぶ二人の将校の一人に任命される。これは極秘の絶対に失敗を許されない任務である。ノーランらは米海軍のインディアナポリス号に乗って、リトルボーイと名付けられた原爆をひそかにテニアン島に運ぶ。そして、広島、長崎への原爆投下。何十万という人々が殺傷されるこの惨事の直後、ノーランはアメリカの調査団の一員として広島、長崎を訪れ、放射線被害で傷つき苦しむ人々の地獄のような実態を直接見聞する。日本人医師らからは、被爆直後の惨状や放射線被害のなまなましい実態、その被害規模などを教えられる。ここでも、放射線被害の実態調査を目的とする調査団の一員として、苦しむ被害者の救出と治療に手を貸さなくてよいのかというジレンマに直面する。

 ノーランは戦後、ビキニ、エニウエトクでの水爆実験にも関与する。実験をひかえて他の島に避難させられた島民たちの苦悩にも、実験がもたらした広範囲にわたる放射線被害による島民たちの苦しみにも接することになる。マンハッタン計画からずっと原水爆の実験使用の現場に立ち合ってきたノーランは、早くからこの任務から離れ、医師としての仕事に戻ることを望んでいたようだ。1948年にはカルフォルニア大学産婦人科教授となり、産婦人科腫瘍学会の権威として生涯を終えている。

 原爆開発はナチスに対向するために始まった。しかし、その後ナチスが原爆開発成功には程遠いことが明らかになり、45年5月には連合国に降服し、さらにソ連の対日戦参加もくわわって、原爆の開発はおろか、実戦使用は意味がなくなっていた。にもかかわらず、なぜ実験、開発をやめることが出来なかったのか、すくなくとも、広島、長崎への投下を中止し、無人地域での実験にきりかえることが出来なかったのか? 現に、実験中止や無人地帯での実験を提案した科学者も少数ながら存在した。この問いはいまも残る。ノーラン自身は終生、原爆開発、使用を表むきには支持する態度をかえなかった。しかし、甥のレイノルズによると、「心の中での格闘が、『ノーランを酒にむかわせた』のかもしれない」という。(2022・8)