豊下樽彦著『安保条約の成立』(岩波新書)

 敗戦後の日本がサンフランシスコ条約で独立を回復して70余年、なお屈辱的な対米従属が続いている。その根源となっているのが日米安保条約である。この条約がどのようにして成立したのかをきちんとたどりたいとの思いは、かなり以前からあったがはたせずにきた。たまたま本書に出会い、多年の念願をかなえることができた。最大の謎は、米軍の占領下であったとはいえ、なぜこのような屈辱的条約をむすんだのかという点にあったが、なるほどと納得することができた。日米外交交渉の経過を克明にたどることによって日米安保条約の本質を浮き彫りにしてくれる本書のもつ意義は計り知れない。1992年に刊行されているが、その解明が埋もれたような状態で放置されているのを残念におもう。もっと光を当て、多くの国民の共通認識にすべきものと確信する。

 サンフランシスコで対日講和条約日米安保条約が結ばれたのは、1951年9月である。まず不可思議なのは、対米交渉の当時者である吉田茂首相が、条約調印の全権代表を引き受けるのを嫌がって固辞し、その任を前首相で高齢の幣原喜重郎らにおしつけようと執拗に画策したことである。普通なら、吉田が率先して赴くはずである。米国務長官のダレスと天皇に説得されて最終的には全権代表を引き受けた吉田は、ただ一人で安保条約に署名し、帰国の途では大磯の自宅が焼き討ちに合うのではと心配していたという(原彬久『吉田茂』<岩波新書>)。なぜ吉田はそれほど世論の怒りをおそれたのか?

 日米安保条約は、他に例を見ない全土基地方式である。サ条約で沖縄が米占領継続とされたうえ、米軍の日本駐留は日本の要請よるアメリカの権利行使であって、日本のどこに基地を設置するかは自由、領空、領海は無制限に使用でき、米軍の犯罪の裁判権も日本にはない、そのうえ米軍は日本防衛の義務は負わない。しかも、条約期限は無限。こんな屈辱的な条約は、フィリピンを占領したアメリカが同国と結んだ条約にさえ例をみない。吉田は対米交渉でこうした条件を受け入れながら、この条約を結んだ当事者として歴史に名を遺すことをよしとしなかったのではないか。

 本書の冒頭で、対米交渉の直接責任者であった外務省西村熊雄条約局長の次の悔恨の言葉を紹介している。「日本の用意した条約案は、―――――日本が武力攻撃を受けた場合にはアメリカは日本を防衛し日本は可能な協力をする。すなわち両国は集団自衛の関係に立つことを規定し、両国がこのような関係にあるから日本は合衆国軍隊の日本に駐留することに同意するという趣旨を根幹とするものであった。あくまで国連憲章の枠内での結びつきを考えたものである」(3p)。すなわち、日本は当初、日本の独立後、国連の枠内で、国連憲章が定める集団安全保障の一環として、米軍が日本を守るために駐留し、日本は基地提供などで協力することに同意する、つまり主権国家同士の協力関係を国連という枠組みのもとに取り決めるというものであった。外務省の用意した案の中には、米軍の駐留継続ではなく、日本や韓国など東アジア一帯に非武装中立地帯を設置するというものもったという。

 ところが、日米交渉が始まると吉田は、国連の枠組みも、対等平等の立場にたつ集団的安全保障としての協力関係も、そのための基地提供への日本の同意をも投げ捨て、つまり必要な外交カードを一方的に放棄して、国連を排除しての「望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」をという米側の要求を認め、米軍の権利としての駐留を日本側がねがいでるというロジックを丸ごと受け入れてしまったというのである。 

 なぜそのようなことがおこったのか? 著者は「一つの仮説」という形で提起する。そこには、昭和天皇による対米交渉への政府の頭越しで直接介入があったというのだ。中国革命に続く朝鮮戦争とこれへの中国軍の派遣といった当時の国際情勢のもとで、日本の「赤化」、共産革命とそれによる天皇への戦争責任再追及、さらに天皇制廃止をおそれた昭和天皇が、なりふりかまわずアメリカ軍の駐留継続を願い、米側との直接交渉に乗り出す。新憲法が制定されたとはいえ天皇の主権者意識は簡単に変わるものでなく、日本の元首としてマッカーサーと会談を重ねてきた天皇が、みずからのメッセージを直接マッカーサーに送っていたことは沖縄の放棄の意思を早くから伝えていたことはなどによって明白である。対日講和でダレスが来日した際にも、天皇はダレスに直接メッセージを送り、吉田政府の対米交渉姿勢への事実上の不信を表明している。天皇にたいして「臣吉田」と忠誠の姿勢を崩さなかった吉田が、天皇の意を飲まざるを得なかったのでは、というのが鴨下の「仮説」である。対日講和、安保条約締結にたいする吉田の不可思議な態度は、この「仮説」を受け入れてこそ理解されうる。だとすると、「国体護持」のために昭和天皇がおこなった二重外交が日本の戦後史に及ぼした重大な否定的役割は改めて問題にされなければならない。(2022・10)