柚木麻子『らんたん』(小学館、2021・11)

 大正の末年、1925年、徳川最後の将軍家定の御台所、天璋院篤姫が名づけの親という一色乕児(54歳)が女教師の渡辺ゆり(38歳)にプロポーズする。ゆりは、ある女性とのシスターフッドの関係継続を認めるという条件で応諾する。結婚しても、先輩であり親友でもあるその女性との関係、同居を続けるというのである。女子英学塾時代の恩師であり親友でもある河井道(1877~1953)である。この作品は一見奇妙なこんな書き出しで始まる。小説という形はとるが、恵泉女学園の創設者、河井道と生涯にわたってその親友、サポート役をつとめた一色ゆりの史実にもとづく心温まる感動的な物語である。

 河井道の父は、伊勢神宮の神官だったが明治維新で失職し北海道に渡って開拓農民となる。そんな環境で育った道は、来日した宣教師や親しかった新渡戸稲造などの感化のもと、上京して女子英学塾の津田うめに勧められて津田が学んだアメリカのプリンマー大学に留学する。そこで、アメリカの女性たちの自由でのびのびした生きざまに触れて、目の覚める思いで帰国、英語教師として津田の塾で津田を支える。当時の女性にとってきびしい社会的規範やしきたりを受け入れたうえで女子教育に死力を尽くす津田を尊敬しつつも、しだいにもっと自由でのびやかな女子教育をと考えるようになる。

 この道にあこがれそのもとに集まる生徒たちの一人であったゆりは、ある日、英学塾の寮をとびだして、河井の家にころがりこみ、いらい同居して、河井と行動をともにし、終生その支えとなって活躍する。道はゆりにアメリカの大学への留学をすすめる。道の希望でゆりは、男女共学のアーラム大学に学ぶ。そこでは、男女が同等に学び論をかわし、ダンスパーティーでは手を組んで踊りもする。日本では、想像することもできない自由なのびやかな青春である。そうした体験を胸に帰国したゆりは、新しい学校をという道の夢に、強く共感し期待もする。そして、一色乕児との結婚後は、河井が一色家に同居する形で、いわゆるシスターフッドを継続する。

 1929年、道子51歳で、東京神楽坂の一角にある民家を校舎に恵泉女学園がスタートした。クリスマスをはじめとするキリスト教の祭事には、生徒と教師が共同で準備し、たのしく自由で伸びやかな行事を催すことが伝統となる。教師の中には彫刻家の本郷新もいた。自由で楽しい雰囲気に満ちた学園はクリスチャンだけでなく各方面から歓迎され、やがて小田急線沿線の経堂に新しい校舎をかまえるようになり、園芸場をふくむ学園の敷地もひろがっていく。

 しかし、時局は日本の中国侵略拡大、アジア、太平洋へ侵攻、対米英戦争へと急転していく。国民総動員令が出され、“欲しがりません勝つまでは”“鬼畜米英”のスローガンのもとに、軍国主義一色の専制支配が教育界をも席巻する。自由と平和をかかげるキリスト教系の私学が相次いで閉校においこまれるなか、恵泉学園は天皇制と軍部による統制、自由と平和の理念と相容れない戦争への協力を建前として受け容れながら、建学の理念と自由の精神を校内に保持し続けるためにぎりぎりの努力を続ける。軍事教練を遠足まがいの遠出でしのいだり、学徒動員先を経営者がクリスチャンの洗濯会社白洋舎に求めて、軍需産業への協力を避けるなどである。

 1945年8月、日本の敗戦、米軍の占領によって事態は一変する。米占領軍司令官マッカーサーの補佐官には、ゆりと道のアメリカでの親しい友人、ボナ・フェラーズ准将がいた。その宿舎やGHQ本部に招かれた道とゆりは、素晴らしいごちそうにあずかるばかりか、天皇制の存続について意見を求められたりする。道は政府の教育刷新委員会の委員に任命され、教育基本法の立案など戦後民主教育の出発に大きな貢献をする。ゆり一家は、一人娘の義子(のちに恵泉女子大学の理事長)のアメリカ留学で一家あげて渡米するが、道の健康悪化で帰国、最期をみとる。

 恵泉学園の出身である作者には河相道の建学の精神がしっかりと受け継がれているのであろう。全編を通じて、明るく、伸びやかで、登場する女性たちが生き生きとしているのがこの作品の最大の特徴である。もう一つは、津田うめ、山川捨松、平塚らいてふ、市川房江、神近市子、伊藤野枝、山川菊枝、村岡花子、柳原百蓮、加藤シヅエといった、近代日本女性史を語る上で欠かせない人たちが、道やゆりとさまざまな接点をもって登場し、立場や政治的見解の違いを越えて温かい目線で描き出されている事である。さらに、山川捨松をモデルにしたと言われる『ホトトギス』の作者、徳富蘆花、『ある女』の作者で波多野秋子と心中した有島武雄と道との批判的交流も、この作品に深みをもたらしている。『不如帰』『ある女』いずれも女性の死でおわる。なぜ女性は死ななければならないのか、道の疑問と抗議は、男性中心社会への痛烈な糾弾である。(2022・10)