江刺昭子著『透谷の妻――石阪美那子の生涯』(日本エディタースクール出版部)

 東京都町田市出身の石阪美那子(1865~1942)は、日本の近代文学の草分けの一人で早逝した北村透谷の妻として話題にのぼることはあるが、それ以外に一般にはあまり知られていない女性である。しかし、透谷が25歳で自殺した後、30歳をすぎてから幼い一人娘を義父母に託してアメリカに単身留学。8年間滞在して、神学、文学、音楽を学んで、1907年、42歳で帰国。日本での女子教育の学校開設という夢こそ実現しなかったが、自宅で英語塾を開くとともに、豊島師範学校で唯一の女性教師をつとめ、のちに品川高等女学校に移り、都合約40年に渡って教育者として務めあげている。やはり、並みの女性ではない。たまたま出会った江刺昭子著『透谷の妻――石阪美那子の生涯』(日本エディタースクール出版部、1995年)は、この女性の波乱に富んだ生涯を克明な取材によってたんねんに追跡した好著である。

 美那子は、明治維新3年前の1865年、現在の町田市野津田に生まれる。家はこの一帯きっての豪農であり、父石阪昌孝は、開明的な人物で当時の神奈川、多摩の自由民権運動の中心的指導者であった。神奈川県議、県会議長、群馬県知事、衆議院議員などを歴任した、この地方では傑出した有力者、著名人であった。教育にも熱心で、学制がひかれると率先して地元での小学校づくりにとりくみ、まだ女子はめずらしかったのだが美那子と妹の登志子をできたばかりの小学校に入学させている。この父のもとで美那子は、小学校卒業後11歳で、東京御徒町にあった当時数少ない女子のための漢学塾、日尾塾に入り、寄宿舎生活で和漢学を学ぶ。優秀な生徒で塾長に見込まれて養子にまでなるが、のちにこれを解消、1885年、英語を学ぶ目的で横浜の共立女学校に入学、ここで熱心なアメリカ人教師の影響でキリスト教に入信。そして、そのころ父の家に出入りしていた透谷と知り合う。二人の関係はやがて熱烈な恋愛へと発展する。その過程で透谷は美那子に感化されてクリスチャンになる。二人の愛は崇高だが、観念的でプラトニックな色彩がひときわ濃かった。周囲の反対をおし切って二人は88年に結婚、美那子23歳、透谷19歳である。しかし、夫がしがない文士でろくに収入もないうえ、自由民権運動退潮の中での透谷の挫折という厳しい現実も重なり、二人の結婚生活はたちまち破綻をきたす。著者の江刺は書く。「現実から遊離した世界で、お互いを聖化し、理想の美酒に酔っている。それはやがて、結婚という現実のなかで、二人とも思い知らされることになる」(122)と。

 このあたりの経緯については、さまざまな透谷論でかならず触れられるので深入りは不要。問題は美那子である。夫の自死という思いもよらなかった衝撃に加え、親の強い反対を押し切っての結婚ゆえ、いまさら実家を頼るわけにもいかず、かといって幼子をかかえて生きるすべもない。文字通り絶体絶命の窮地に立たされる。娘を義父母に託して女性宣教師に日本語を教えキリスト教の伝道も手伝う美那子は、やがて、アメリカ留学に活路を求めることになる。信頼し一緒に活動していた宣教師、ベンドローが帰国する機会に、誘われもしたのである。当時で500円という莫大な渡航費は大半を借金でまかない、滞在費や学費は現地調達で、インディアナ州にあるベンドローの郷里・メロームという田舎町に住み着き、そこにある男女共学のユニオン・クリスチャン・カレッジ(U・C・C)に5年間通う。さらに、隣のアイオワ州にあるデファイアンス・カレッジに進み、2年間、神学・音楽・文学を修めたことはすでにふれた。

 滞在中の苦労は並みたいていではなかった。時に食べるものにも事欠いたと美那子は回想している。しかし、夫を失い、30過ぎでの単身留学の美那子の境遇が知れるにつれて、同情や激励が集まり、日露戦争での日本の勝利の反響もあって、講演のなどの依頼がつぎつぎに舞い込み、その謝礼が主な収入源になったという。現地にすっかり溶け込んだ美那子は、多くの友人たちにかこまれ、生き生きと大活躍、デファイアンス大の卒業にさいしては、成績優秀で金時計を贈られている。また大学のYWCAの代表として全国大会に派遣されたりもしている。

 1907年帰国した美那子は、同年に逝去した父をみとることは出来なかった。明治専制国家による良妻賢母の女子教育制度が確立していく中で、アメリカ帰りのキリスト教信者の彼女を受け入れる教育現場がなくなっていたもとで、彼女のたどった歩みは決してはなやかなものではなかった。しかし、教育者としての彼女の後半生は、それなりに充実したものであった。アメリカ仕込みの生徒の自立と自主性を重んじる彼女の授業は、生徒にとってとても厳しいものであったという。太平洋戦争開戦翌年の1942年4月10日、76歳の生涯を終えるが、「アメリカと戦争をするようなことをしてはいけない。アメリカという国を日本は知らなすぎる。これは負ける」との言葉を残している。

 美那子も、日本が世界に窓を開いた明治という時代に、海外に羽ばたいた女性たちの一人である。当時、海外に出た女性たちが実にのびのびと自由に生き生きとくらし、学び、多くの友人と巡り合い、終生その絆を大切に維持していることに大きな驚きを禁じ得ない。同じ時代に、留学した男性の多くが、留学先の社会になじめず、屈折した心境のもとに、孤独な生活を送っていたのときわめて対照的である。イギリスに留学してロンドンの下宿に閉じこもり、鬱屈した生活を送って、「夏目狂へり」とのうわさが飛び交った夏目漱石はその見本と言えよう。これにたいして、ここにとりあげた女性たちは、海外の滞在先に溶け込み、実に生き生きと、伸びやかに、闊達に生きているのである。

 なぜだろうか? そんな疑問から思いいたったのは、家父長制家族制度のもとで女性が無権利状態のまま家に縛り付けられていたこの時代に、女性にとって海外に出るということは家のしがらみからの脱出,解放を意味したのだということである。自分を殺し、ひたすら家のため夫のために身を犠牲にする生き方からの脱出、解放こそ、海外、アメリカでの生活であった。そこでのびのびと自由に生き、時代の制約はあったにせよ男女の平等な関係をも経験し、それらの体験を身に着けて日本に帰国し、それぞれの違いはあるにしろ、その体験をもとに日本の女性の地位向上とそのための教育に献身する、その点で共通しているのである。

 もちろん、これらの女性たちは、社会的には恵まれた階層に属するいわば特権的な人々と言えるかも知れない。しかし、こうした女性たちによって、近代日本の女性の地位向上、そのための女子教育の発展の一端が担われてきたことは疑いえない。ジェンダー平等が声高く叫ばれる昨今、そうした歴史を顧みることに新たな意義を見出さずにはおかない。(2022・11)