カズオ・イシグロ『充たされざる者』(古賀林 孝訳、早川文庫、2007・5)

 文庫で1000ページ近くもある大作で、さすがの私もちょっと挑戦を控えざるを得なかったが、これで未読了は最後の作品になるので意を決して昨年末から読み始め、一週間ほどかけて読了した。分量も分量だが、内容もなんとも解しかねない異様な作品である。いったいなんのためにこれだけの大作を書いたのかさっぱり理解できないのである。作者は、この作品に対する不評を意に介さず、自分の作品の中で最高の傑作だと言っているようだが、いかなる意味においてであろうか? 

 イシグロは、これまで日英の文化や歴史を題材に時代の流れの中で個人が担う役割や責任といったテーマに挑んで、現実に対してなかなか鋭い問題意識の持ち主であると、私は評価してきたのだが、本作は中欧の架空の町を舞台に、特定の国の情緒や風景といった具体的なリアルさをまったくはぎ取って、時間も空間も入り乱れて、一癖も二癖もある多彩な人物がつぎつぎに登場し、とうとうと語りかける言葉は冗漫で奇想天外、起こる出来事は荒唐無稽、夢とも現実ともつかない。作者は、この作品はブラック・コメディとして書いたもので、自分はリアリズムの小説家とは二度と呼ばれたくないとも語っているようだ(訳者あとがきによる)。そういわれれば、すこし納得するところも感じられるが、それにしても不思議な作品である。評者法によっては、カフカの世界を思わせるというが、カフカは読んでいないのでなんともいいようがない。

 主人公のライダーは、世界一流のピアニストで、この町に招かれて演奏会を予定している。町は深刻な危機に瀕していいてライダーが出演する音楽会の成功に町の命運がかかっているという設定である。しかし、その危機がいかなる性質のものかは、最後まで読んでもさっぱりわからない。この作品の奇怪さ、異様さの一端はこのあたりから生まれている。ライダーが町のホテルに着くと、老ポーターが荷物を運んで部屋まで案内してくれるのだが、その途中でポーターの役割の重要性とにもかかわらず社会的評価が低いことついて、滔滔とかたりかけてくる。そのうえ、ライダーが演奏する前におこなうスピーチで、自分たちポーターの役割について一言ふれてほしいと懇願する。このこと自体が荒唐無稽であるが、なぜこんな話を冒頭からするのかさっぱりわからない。そのうえこのポーターは、ゾフィーという娘とボリスというその子供のことについてもあれこれ語る。

次に、ホテルの支配人のホフマンが、市の文化関係の重責を担うものとして演奏会の意義とそれを成功させるためのあらゆる努力について、これまたえんえんとまくしたてる。そのうえ、芸術的才能で秀でる名家の出身の妻のこと、音楽家の卵である息子のことをこれまた滔滔と語りかける。

 さらに支配人は、妻に去られて飲んだくれて社会的には廃人のようにみられている元指揮者のブロッキーなる人物を、当の演奏会に再登場させ指揮者として復権させるという計画を語り、その成功に町の復活がかかっているともいう。ライダーはこのブロッキーなる人物に実際紹介され、その奇行にも付き合わされる。ブロッキーは、別れた妻との関係を回復したいという強い願いをもち、アルコールもそれを成就するためにやめたというのだが? さらにホテルの支配人の息子シュテファンは、ライダーに自分の演奏を一度でいいから聞いて、意見をほしいと訴える。その背景には、両親の尋常ではない関係に根ざす、息子に対する不当な評価がある。

 そのあいだに町の貴族の主宰するパーティーがあったり学生時代の古い友人との出会いがあったり、あるいはライダーの両親が町にやってきて演奏会に出席するという話があったりと、およそなんの脈絡もありそうにない話が、次から次へとえんえんと饒舌につづく。そして演奏会は失敗に終わるのだが? はたしてこの脈絡のない駄法螺ばなしによって、作者は何を語るのか。ブラック・ユーモアにしても、なんともとらえどころがない。その点では、一番新しい作品「忘れられた巨人」にも通じるものがある。イシグロが変な迷路に踏み込んでいなければよいのだが?(2018・1)