同じ作者の近作『南朝 風姿花伝』(角川春樹事務所)を読む機会があった。世阿弥の生涯をえがいた作品で、なかなか才能のある作家だと感心し、他の作品も読んでみる気になっていどんだのがこの作品である。小説スバル新人賞を受賞している。
熊谷亮介という78歳になる老人が急性骨髄性白血病を患い在宅で最期を迎えるために入院先の病院を退院するところから始まる。妻の多江子と娘のきみ子は、病人の住む部屋を整えるために準備に追われている。仏壇を整理していると、ガラスのはまった小さな木箱が出てくる。なかには、青い蝶が虫ピンで止められている。蝶の標本である。なぜこのようなものが仏壇の奥に長年保管されていたのか? このなぞをめぐって、話は、戦前、戦後を交錯しながら展開する。舞台は広島で、亮介夫妻は、被爆者である。
亮介は、中学一年生のとき爆心地近くで学徒動員による作業中に被曝、奇跡的に助かるが、重傷を負い死体がるいるいと重なる地獄のような惨状を直接体験して今日まで生き延びる。あとわずかな命とむきあう亮介は、自分の少年時代から戦後事業を起こしてそれなりに成功し今日にいたる歩みを思い起こし感慨にふける。そのなかには、娘が小学生だったころ、被爆体験を聞いて作文にする宿題を出した教師と、戦争責任をめぐって激論したことなども含まれる。戦争体験、被爆体験を残すことの大事さを説いた教師に、むきになって異論を唱えたことを反省しながら思い出したのである。
亮介の父は、軍人で陸軍航空隊を率いる将校として部下を特攻に送り出すなどして敗戦を迎えるが、まじめな性格で戦後社会に対応できず自滅する。亮介にとって、戦争責任を問われる立場にある父のもとで育ったことは、生涯の負い目であるとともに、戦争に対する複雑な心理をいだく元ともなっている。そんなこともふくめて、あの戦争が、その中で生きた人々にあたえた苦難や、その後の人生への影響、さまざまな葛藤をていねいに心を込めて描き出す。
亮介には、秘められた恋といってよいが、ごく身近に初恋の女性がいた。この女性とのあわい恋物語が、亮介のすさまじい被爆体験とともに、この作品の中心をなしている。冒頭にてくる青い蝶の標本には、亮介の初恋のおもいでとともに、その少女の複雑で多難な生い立ちと人間関係が刻印されている。派手な戦争描写はないが、一人の少年の初恋と被爆体験を通じて、戦争の悲劇を浮き彫りにし、平和と命の尊さを考えさせてくれる味わい深い作品である(2026・6)