日本最初の女性科学者、猿橋勝子(1920~2007)の半生をテーマにした作品である。東京第六高等女学校を卒業した勝子は当時の女性にはめずらしく理系の学科が得意で医学を志す。医師で東京女子医学専門学校を創設した吉岡弥生を尊敬し、同校の入学試験を受ける。ところが面接試験で初めて対面した吉岡の高圧的な言動に接して、一挙に失望し、進路を転換、たまたま知った創立したばかりの帝国女子理学専門学校の物理学科に入学する。日本が米英戦に突入する時代である。学校の授業の一環で実習をおこなうことになったのが気象庁で、そこで勝子は新進の気象化学者である三宅康雄と運命的な出会いをする。三宅はのちに東京教育大学の教授にもなるが、優れた学者であるだけでなく、人間を性別や学歴で分け隔てることのない人で、名もない学校の女子学生である勝子を一人の熱心な研究者としてあつかい、ていねいに援助する。女子医専の吉岡とは全く対照的なこの三宅に無条件に共鳴し限りない尊敬の目を向けるようになる勝子は、卒業とともに気象庁に入り、三宅のもとで気象化学者としての地道な修行を重ねる。二人のそうした関係は勝子の生涯を太く貫くことになる。対米英戦争は緒戦の勝利にもかかわらず次第に日本の劣勢は避けられず、米空軍の空襲によって東京はじめ全土が焦土と化し、気象庁は長野・諏訪に疎開、勝子たちも長野の小学校に設けられた臨時研究室に移って研究を続ける。そしてそこで敗戦を迎える。
戦後、米軍の占領下で気象庁の活動は再開される。折しも、世界は激しい核軍拡競争の時代に入り、アメリカによる太平洋のビキニ環礁での水爆実験で、第五福竜丸が被曝、死亡を含む多くの被爆者を生む事態がおこり、大気、海洋の放射能汚染が国際的な大問題になる。日本では原水爆禁止運動が広がり、1955年には第一回原水爆禁止世界大会が開かれるにいたる。そんななかで、三宅とともに猿橋は、大気や海洋での放射能汚染の実態究明・分析に献身的な努力を重ねる。その成果は次第に国際的にも注目を集めるようになり、勝子は東大理学部から博士号の授与も受ける。
そんななかで、三宅、猿橋らが測定し発表した海洋中の放射性汚染物質セシウム137の濃度に関する数値について、アメリカの海洋研究所が捏造だと異論をとなえ、いくら説明しても譲らないという事態が勃発する。アメリカ側の代表者は海洋学の世界的権威、セオドラ・フォルサムだという。三宅らによる再三の申し入れによって、ついに両者立会いのもとで共同検証をおこなうことになり、日本側の研究者代表として猿橋がアメリカに派遣されることになる。単身、カリフォルニアにあるスクリプス研究所に乗り込んだ勝子と米側の研究者の間で、同じ量の同じ海水をつかって測定値を競う実験が行われる。その結果はいかん? これが作品のクライマックスである。
勝子は一生独身をつらぬき、87歳の生涯を全うした。1980年には日本で最初の女性学術会議会員に選出され、若い女性科学者を年に一回顕彰する猿橋賞も設けられるにいたった。1958年に結成された日本女性科学者の会の発起人でもある。また、全国革新懇(平和・民主主義・革新統一をすすめる全国懇話会、1981年結成)の世話人に名を連ねるなど、反戦・平和の社会運動にも積極的に参加している。地味だがかけがえのないこうした人物に光を当てた作者の着眼とその半生を丹念にたどったその努力に、心から敬意を表したい。なお最後に、筆者は1960年代に編集者として、猿橋氏と三宅氏にお会いしたことがあることを記しておく(2026・7)