伊与原 新『翆雨の人』(新潮社、2025・7)

 日本最初の女性科学者、猿橋勝子(1920~2007)の半生をテーマにした作品である。東京第六高等女学校を卒業した勝子は当時の女性にはめずらしく理系の学科が得意で医学を志す。医師で東京女子医学専門学校を創設した吉岡弥生を尊敬し、同校の入学試験を受ける。ところが面接試験で初めて対面した吉岡の高圧的な言動に接して、一挙に失望し、進路を転換、たまたま知った創立したばかりの帝国女子理学専門学校の物理学科に入学する。日本が米英戦に突入する時代である。学校の授業の一環で実習をおこなうことになったのが気象庁で、そこで勝子は新進の気象化学者である三宅康雄と運命的な出会いをする。三宅はのちに東京教育大学の教授にもなるが、優れた学者であるだけでなく、人間を性別や学歴で分け隔てることのない人で、名もない学校の女子学生である勝子を一人の熱心な研究者としてあつかい、ていねいに援助する。女子医専の吉岡とは全く対照的なこの三宅に無条件に共鳴し限りない尊敬の目を向けるようになる勝子は、卒業とともに気象庁に入り、三宅のもとで気象化学者としての地道な修行を重ねる。二人のそうした関係は勝子の生涯を太く貫くことになる。対米英戦争は緒戦の勝利にもかかわらず次第に日本の劣勢は避けられず、米空軍の空襲によって東京はじめ全土が焦土と化し、気象庁は長野・諏訪に疎開、勝子たちも長野の小学校に設けられた臨時研究室に移って研究を続ける。そしてそこで敗戦を迎える。

 戦後、米軍の占領下で気象庁の活動は再開される。折しも、世界は激しい核軍拡競争の時代に入り、アメリカによる太平洋のビキニ環礁での水爆実験で、第五福竜丸が被曝、死亡を含む多くの被爆者を生む事態がおこり、大気、海洋の放射能汚染が国際的な大問題になる。日本では原水爆禁止運動が広がり、1955年には第一回原水爆禁止世界大会が開かれるにいたる。そんななかで、三宅とともに猿橋は、大気や海洋での放射能汚染の実態究明・分析に献身的な努力を重ねる。その成果は次第に国際的にも注目を集めるようになり、勝子は東大理学部から博士号の授与も受ける。

 そんななかで、三宅、猿橋らが測定し発表した海洋中の放射性汚染物質セシウム137の濃度に関する数値について、アメリカの海洋研究所が捏造だと異論をとなえ、いくら説明しても譲らないという事態が勃発する。アメリカ側の代表者は海洋学の世界的権威、セオドラ・フォルサムだという。三宅らによる再三の申し入れによって、ついに両者立会いのもとで共同検証をおこなうことになり、日本側の研究者代表として猿橋がアメリカに派遣されることになる。単身、カリフォルニアにあるスクリプス研究所に乗り込んだ勝子と米側の研究者の間で、同じ量の同じ海水をつかって測定値を競う実験が行われる。その結果はいかん? これが作品のクライマックスである。

 勝子は一生独身をつらぬき、87歳の生涯を全うした。1980年には日本で最初の女性学術会議会員に選出され、若い女性科学者を年に一回顕彰する猿橋賞も設けられるにいたった。1958年に結成された日本女性科学者の会の発起人でもある。また、全国革新懇(平和・民主主義・革新統一をすすめる全国懇話会、1981年結成)の世話人に名を連ねるなど、反戦・平和の社会運動にも積極的に参加している。地味だがかけがえのないこうした人物に光を当てた作者の着眼とその半生を丹念にたどったその努力に、心から敬意を表したい。なお最後に、筆者は1960年代に編集者として、猿橋氏と三宅氏にお会いしたことがあることを記しておく(2026・7)

 

周防柳『八月の青い蝶』(集英社、2014)

 同じ作者の近作『南朝 風姿花伝』(角川春樹事務所)を読む機会があった。世阿弥の生涯をえがいた作品で、なかなか才能のある作家だと感心し、他の作品も読んでみる気になっていどんだのがこの作品である。小説スバル新人賞を受賞している。

    熊谷亮介という78歳になる老人が急性骨髄性白血病を患い在宅で最期を迎えるために入院先の病院を退院するところから始まる。妻の多江子と娘のきみ子は、病人の住む部屋を整えるために準備に追われている。仏壇を整理していると、ガラスのはまった小さな木箱が出てくる。なかには、青い蝶が虫ピンで止められている。蝶の標本である。なぜこのようなものが仏壇の奥に長年保管されていたのか? このなぞをめぐって、話は、戦前、戦後を交錯しながら展開する。舞台は広島で、亮介夫妻は、被爆者である。

 亮介は、中学一年生のとき爆心地近くで学徒動員による作業中に被曝、奇跡的に助かるが、重傷を負い死体がるいるいと重なる地獄のような惨状を直接体験して今日まで生き延びる。あとわずかな命とむきあう亮介は、自分の少年時代から戦後事業を起こしてそれなりに成功し今日にいたる歩みを思い起こし感慨にふける。そのなかには、娘が小学生だったころ、被爆体験を聞いて作文にする宿題を出した教師と、戦争責任をめぐって激論したことなども含まれる。戦争体験、被爆体験を残すことの大事さを説いた教師に、むきになって異論を唱えたことを反省しながら思い出したのである。

 亮介の父は、軍人で陸軍航空隊を率いる将校として部下を特攻に送り出すなどして敗戦を迎えるが、まじめな性格で戦後社会に対応できず自滅する。亮介にとって、戦争責任を問われる立場にある父のもとで育ったことは、生涯の負い目であるとともに、戦争に対する複雑な心理をいだく元ともなっている。そんなこともふくめて、あの戦争が、その中で生きた人々にあたえた苦難や、その後の人生への影響、さまざまな葛藤をていねいに心を込めて描き出す。

 亮介には、秘められた恋といってよいが、ごく身近に初恋の女性がいた。この女性とのあわい恋物語が、亮介のすさまじい被爆体験とともに、この作品の中心をなしている。冒頭にてくる青い蝶の標本には、亮介の初恋のおもいでとともに、その少女の複雑で多難な生い立ちと人間関係が刻印されている。派手な戦争描写はないが、一人の少年の初恋と被爆体験を通じて、戦争の悲劇を浮き彫りにし、平和と命の尊さを考えさせてくれる味わい深い作品である(2026・6)

アンドリュー・ハートマン著『マルクス・イン・アメリカ』(森原公敏訳、新日本出版社、2026・5)

  著者は、アメリカのイリノイ州立大学教授、歴史学専攻で、さきほど核不拡散条約(NPT)再検討会議への出席のため訪米した日本共産党代表団長の志位和夫議長と対談し、共産主義と自由をテーマに意気投合しています。資本主義の総本山で、科学的社会主義の創始者であるカール・マルクス(1818~1873)がどう受けとめられ、読まれてきたか、本書は150年余にわたるその歴史を丹念にたどります。700ぺージにも及ぶ大著です。そのさわりを紹介しましょう。

   出発点は、1864年、誕生したばかりの国際労働者協会を代表してマルクスが、南北戦争で奴隷解放を宣言したリンカーン大統領に祝辞を送り、リンカーンから心のこもった礼状が届く感動的な場面からです。『資本論』第一巻が刊行されるのが1867年ですから、その3年前ということになります。1972年には国際労働者協会の本部がニューヨークに移されています。こうしてマルクスの思想と理論は、アメリカの労働者階級の運動の中に一歩いっぽ地歩を占めていきます。

    20世紀になると、17年のロシア革命から1929年の世界恐慌を経て1930年代には、マルクスはアメリカ労働運動の大事な思想的支えの一つとなっていきます。ところが、ルーズベルトのニューディールが成果をあげる中で、“マルクスは不要”“マルクスはアメリアになじまない”などといった風潮が保守派だけでなくリベラル派にも浸透し、赤狩りなど反共と暴力的排除の動きとともに、労働運動のなかでの影響力は衰退します。

    しかし、1960年代には、ベトナム反戦運動や新左翼運動などが隆盛するもとで、学術、文化の分野でマルクスの復活の流れが強まります。あるアルジェリア解放運動の指導者の「合衆国に送る学生は皆、マルクス主義者として帰ってくる。ソ連に送る学生は皆、反共主義者として帰ってくる」といった言葉も紹介されています。

   21世紀に入り、新自由主義が支配するアメリカ資本主義のグローバル化のもとで、貧富の格差の極端な広がりと労働者階級の失業、貧困化、社会的地位の低下がすすみ、2008年のリーマンショックでアメリカ資本主義の矛盾が爆発するなかで、現在にいたる「第4のマルクス・ブーム」が広がります。マルクスの「資本主義批判は、社会的な個人が自分の人生を生きる自由への彼の確固たると信念に照らして初めて意味を持つ」(哲学者へグルンド)といった主張も紹介されています。民主的社会主義者がニューヨーク市長に当選しました。未来への希望も展望も失った青年たちのなかで、社会主義が多くの若者たちに歓迎される状況が生れています。

 もちろん、アメリカではマルクスを排撃し、アメリカ社会と相容れない存在として拒絶する風潮や運動が根強く執拗に繰り返されてきたことも間違いありません。しかしその歴史は、第二次大戦後の戦後のマッカーシズムに代表される支配階級からのきびしい弾圧と繰り返される徹底的な排除にもかかわらず、文字通り不死身の生命力を発揮してきたことを示しています。その最大の秘密は、マルクスの「自由に関する視点」だと著者は語ります。(2026・6)

 

アンドリュー・ハートマン著『マルクス・イン・アメリカ』(森原公敏訳、新日本出版社、2026・5)

  著者は、アメリカのイリノイ州立大学教授、歴史学専攻で、さきほど核不拡散条約(NPT)再検討会議への出席のため訪米した日本共産党代表団長の志位和夫議長と対談し、共産主義と自由をテーマに意気投合しています。資本主義の総本山で、科学的社会主義の創始者であるカール・マルクス(1818~1873)がどう受けとめられ、読まれてきたか、本書は150年余にわたるその歴史を丹念にたどります。700ぺージにも及ぶ大著です。そのさわりを紹介しましょう。

   出発点は、1864年、誕生したばかりの国際労働者協会を代表してマルクスが、南北戦争で奴隷解放を宣言したリンカーン大統領に祝辞を送り、リンカーンから心のこもった礼状が届く感動的な場面からです。『資本論』第一巻が刊行されるのが1867年ですから、その3年前ということになります。1972年には国際労働者協会の本部がニューヨークに移されています。こうしてマルクスの思想と理論は、アメリカの労働者階級の運動の中に一歩いっぽ地歩を占めていきます。

    20世紀になると、17年のロシア革命から1929年の世界恐慌を経て1930年代には、マルクスはアメリカ労働運動の大事な思想的支えの一つとなっていきます。ところが、ルーズベルトのニューディールが成果をあげる中で、“マルクスは不要”“マルクスはアメリアになじまない”などといった風潮が保守派だけでなくリベラル派にも浸透し、赤狩りなど反共と暴力的排除の動きとともに、労働運動のなかでの影響力は衰退します。

    しかし、1960年代には、ベトナム反戦運動や新左翼運動などが隆盛するもとで、学術、文化の分野でマルクスの復活の流れが強まります。あるアルジェリア解放運動の指導者の「合衆国に送る学生は皆、マルクス主義者として帰ってくる。ソ連に送る学生は皆、反共主義者として帰ってくる」といった言葉も紹介されています。

   21世紀に入り、新自由主義が支配するアメリカ資本主義のグローバル化のもとで、貧富の格差の極端な広がりと労働者階級の失業、貧困化、社会的地位の低下がすすみ、2008年のリーマンショックでアメリカ資本主義の矛盾が爆発するなかで、現在にいたる「第4のマルクス・ブーム」が広がります。マルクスの「資本主義批判は、社会的な個人が自分の人生を生きる自由への彼の確固たると信念に照らして初めて意味を持つ」(哲学者へグルンド)といった主張も紹介されています。民主的社会主義者がニューヨーク市長に当選しました。未来への希望も展望も失った青年たちのなかで、社会主義が多くの若者たちに歓迎される状況が生れています。

 もちろん、アメリカではマルクスを排撃し、アメリカ社会と相容れない存在として拒絶する風潮や運動が根強く執拗に繰り返されてきたことも間違いありません。しかしその歴史は、第二次大戦後の戦後のマッカーシズムに代表される支配階級からのきびしい弾圧と繰り返される徹底的な排除にもかかわらず、文字通り不死身の生命力を発揮してきたことを示しています。その最大の秘密は、マルクスの「自由に関する視点」だと著者は語ります。(2026・6)

 

水村美苗『本格小説』(上下、新潮文庫、2005)

    たまたまこの作者の最近作『大使とその妻』(上下)を読んで大変面白かったので、続いて『母の遺産』(上下)も読破した。死にゆく母を前に遺産の計算をする娘の母に対する複雑な思いと母がたどった特異な歩みを描いてこれも読みごたえがあった。そこで、初期の大作である『本格小説』にも挑戦することにした。

    この作者は、夏目漱石の絶筆となった作品、新聞連載途中で中断した『明暗』の続編を書いた人でもある。主人公の津田と妻のお延は端からは仲の良い夫婦で通っているが、いまひとつしっくりいかない。その原因は、津田が結婚前の恋人だった清子との関係を清算しきっていないことにある。そのことに気づいた津田は、妻に無断で温泉地で療養中の清子に会いに行く。たまたまそのことを知った延は、裏切られたと血相を変えて津田のもとへ急ぐ。心配した津田の妹など周辺の人たちも大急ぎでその後を追う。目前に修羅場が迫るが、作品はそこで中断している。その続きを見事に描き上げたのが水村の『続 明暗』である。今回の作品は、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』を下敷きにしている。古典をベースに、これが作者の一つの作風でもある。

  『嵐が丘』は、イギリスのヨークシャーの荒地に建つお屋敷を舞台に、たまたまこの屋敷に拾われる孤児ヒースクリフと屋敷の一人娘のキャサリンをめぐる物語である。二人の間に育つ狂おしい愛と、家柄と育ちの違いゆえにヒースクリフを捨てて裕福な家の息子エドガーと結婚するキャサリン、裏切られ、絶望し、復讐を誓うヒースクリフの執念と怨念がもたらす悲惨な事態といったテーマである。シェークスピアの『リア王』、ハーマン・メルヴィルの『白鯨』とともに世界の三大悲劇のひとつともいわれる。

    さて“本格小説”とは、この言葉そのものが今日あまり使われないが、私小説に対置され、私からは独立した客観的なストーリーという意味である。ところがこの作品は、上巻の途中まで200ページ以上を割いて、アメリカ在住の作者が実名でこの作品の主人公となる東太郎なる人物にどこでどのような理由でめぐり逢い、その仕事や人物についてどの程度知っているかを、一人称で淡々とつづるという、まさに私小説そのものの手法で描かれているのである。これがまず意表をつく。東は、アメリカで仕事に就く作者の父の知り合いの医療器具を扱う経営者のお抱え運転手として、日本から貨物船で渡米する貧しい若者である。勤勉で頭脳明晰、やがて医療機器の修理をまかされ、間もなく経営に参加、またたく間に在米日本人社会で名をとどろかす成功者にのし上がっていく。そのうわさや情報が作者の耳に入ってくる。

    ところがそんな私小説的描写から一転、東京の成城学園と避暑地軽井沢を舞台に、三姉妹がいる裕福な三枝家に若くして女中に入る富美子という女性の目を通じて、この家の車夫に親族として敷地内に住むことになる東家で、継母と二人の兄による虐待と差別に苦しむ太郎の悲惨な少年時代が描かれる。そして、太郎と三枝家の次女の夏江の娘よう子とのあいだに育まれる愛と、太郎の求愛を断って裕福で格のある水野家の御曹司と結婚するよう子、絶望して自暴自棄になり、やがて日本を捨て、アメリカ人のお抱え車夫として渡米する太郎と、アメリカで成功し、日本に帰国し、軽井沢の別荘でよう子に再会する成人した太郎とその後の二人の関係がていねいに描き出される。この辺りは文字通り『嵐が丘』が下敷きになっている。ただ、『嵐が丘』では、ヒュースクリフの怒りは、すさまじい憎悪による残虐な復讐となるが、水村作品ではそうはならない。このあたりに、イギリス人と日本人との本質的な違いを見ることができるかもしれない。

    それにしても、タイトルが『本格小説』という普通名詞なのは合点がいかない。たとえば「軽井沢の悲恋」とか、「軽井沢の悲劇」などにしなかったのはなぜか? 解けない疑問が残る。(2026・6)

水村美苗『大使とその妻』(新潮社2024)

    作者は、12歳で渡米したが米国社会になじめず、持参した日本文学全集に没頭して少女時代を過ごし、イェール大学で仏文学を学び、大学院を出て、アメリカの大学で仏文学を講義してきたという経歴の持ち主である。したがって、国際的な視野から日本とは、日本人とは何かを問い続けてきた。著作の『日本語が滅びるとき』に、その問題意識を端的に観ることができる。この作品の根底にも、作者ならではのそうした問題意識が太く貫かれていることをまず指摘しておかなければならない。

 主人公のケヴィンは、アメリカ人だが日本文化に魅せられ、日本に住んで日本の文化や歴史の研究に打ちこむとともに、日本の古い文化を辿るネットでのプロジェクトを立ち上げ、主催もしている。夏は、軽井沢の追分にある人里離れたひなびた別荘にひとりで暮らしている。このケヴィンの別荘の隣に建つ無人の建物が改装され、そこに中南米で大使などを務めてきたという外交官の篠田氏とその妻、貴子夫人が夏の間滞在するようになる。ケヴィンと夫妻はいつか親しくお付き合いするようになっていく。

 ケヴィンの目に映った夫妻、とりわけ夫人の貴子さんは実に不思議な人であった。どこか精神を病んでいるようであるが、日本ではすでに見られなくなったひと時代前の上流階級の人に特有のしぐさや物言い、考え方などがそのまま生きているように見受けられるのである。あの戦争と戦後の激変、高度経済成長のなかで、日本の伝統的な文化は姿を消し、無国籍な建造物や流行が大手を振って跋扈している。そんななかで、貴子夫人は和服を見事に着こなし、かつての貴婦人たちのように語り、別荘にしつらえられた舞台で能を美しく舞う。いったいどこの出身でどのようにして育った人なのか、ケヴィンの興味と関心は募るばかりである。

 作品の第1部は、軽井沢で夏を過ごすケヴィンと篠田夫妻との交流、ケヴィンの目に映る篠田夫妻、とりわけ貴子夫人の特異なだが高貴で魅力的な所作、風貌が、驚きと感嘆をまじえながら語られていく。そして、貴子夫人が、実はブラジル移民の出身で、ブラジル生まれで、ブラジル育ち、数年前に初めて日本の地を踏んだばかりだということを知って、想像もできなかった意外性に驚くケヴィンの深い感慨が語られていく。

 第2部では一転して、貴子夫人のブラジルでの出生、生い立ち、藤田氏と出会うでのいきさつなどが丹念にたどられる。そこでは、日系移民の歴史、明治時代に政府によって棄民として送り出された貧しい農民たちが、ブラジルの荒廃した土地に放り出されて、地獄の苦しみを体験する。そんななかで、農地を捨ててサンパウロなどに逃れて、生業を見つけて生き延びるなどの苦難な歩みをしいられるとともに、戦争をはさんで独裁政権のもとで敵対国民として日本語の使用も許されない厳しい弾圧を受ける。さらに、戦後、ブラジル在住の日本人の間に、日本の敗戦を認めない勝ち組みと敗戦を認める負け組みのあいだで血みどろの争いが起こり多くの人が傷つくという、今では信じられないような騒動も体験せざるを得なかった。そんななかで、日本人であることを忘れるな、日本人らしく生きよ、という至上命令のもとに生き抜く人々、これが日本人移民の実相であった。

 そんなブラジル移民の一人としてブラジルで生まれた貴子さんは、いったいどのように育てられ、成長していったのか、これまた想像すらできない波乱万丈であった。つぶさにたどられるその足どりは、ただただ驚くほかない。そんな激動の時代に、異国の地で日本と日本人の足跡が刻まれていたのである。貴子というひとりの女性の半生をつうじて、そのことが浮き彫りにされる。日本とは? 日本人とは? もちろん答えはない。しかし、考えさせられずにおかない。(2026・5)

木内昇『雪夢往来』(新潮社、2024・12)

    越後・雪国の暮らしや言い伝えを記して江戸時代にベストセラーになった『北越雪譜』(鈴木牧之編撰)をめぐって、この著作が日の目を見るまで40年もかけて苦闘した筆者・鈴木牧之の生涯と、この著作刊行にかかわった当時の江戸出版界の花形、戯作者・山東京伝とその弟・京山、曲亭馬琴らの生きざまを通して、当時の江戸の出版事情を描いた長編フィクションである。作者は、1967年生まれで、『漂砂のうたう』で直木賞を受賞している。

  鈴木牧之(1770~1842)は雪深い越後魚沼郡塩沢で生まれ、父が残した家業を継ぐとともに、当時地方でも盛んになった俳諧などにもいそしむ日々を送っている。この牧之は若い時に仕事で江戸に出たことがあり、そのとき越後の豪雪とそのなかでの暮らしについて語ったところ、だれもまともに受けとめず、途方もないホラ話と聞き流されるという苦い経験をしていた。そこで、雪国の生活やそこに伝わる奇談などを書き記して出版して江戸の人々の目を覚ましてやりたいというひそかな大志をいだき、仕事の合間に書き綴っていた。文才もあり絵も描く才能の持ち主でもあったのである。

 問題は、出版するには江戸の版元とわたりをつけなければならない。しかし、牧之にはなんの伝手も知り合いもいない。思い切って当時江戸で一番の人気を得ていた山東京伝に手紙を書いて相談を持ち掛ける。描かれた雪国の暮らしや奇談に興味をもった京伝から版元に取り次いでやるとの便りをもらい、喜んだ牧之は原稿と絵をせっせと送る。しかし、その後何年たっても、事態は一向進展せず、京伝からは音沙汰もなくなる。手だてを尽くして督促すると、版元が出版の条件として50両の出資を著者に要求しているという。困り果てた牧之は、京伝だよりをあきらめて、俳句の伝手や商売のつながりなどをたよって、いろいろ手を打つがさっぱり打開のめどは立たない。

 途方に暮れた牧之は、思い切って当時、京伝と並んで評判を呼んでいた曲亭馬琴に話を持ち込む。馬琴は『南総里見八犬伝』で人気を呼んでいるが、大変な奇人としても知られる存在であった。馬琴からの返事は、京伝とのかかわりがある以上、ひきうけかねるというものであった。これで、話は行き詰まるが、京伝が突然亡くなり、馬琴が態度を変えて事態は好転、馬琴が版元とのとりつぎをひきうけ、共著者として自分の名の使用も承諾してくれる。しかしその後、馬琴は関心を失い事態は進展しないまま、何年も経過する。最後に、亡くなった京伝の弟でやはり戯作者の山東京山の手で出版にこぎつける。

 ざっとこんなストーリーなのだが、何よりも興味を惹かれるのは、京伝とその弟、馬琴といった戯作者たちのそれぞれの個性と生きざま、素人の作品の刊行など簡単に実現しない江戸の出版界の喧騒とした営利主義と競争社会のありようなどが、実に見事に生きいきと描きだされていることである。『北越雪譜』は、刊行されると評判を呼び、予想を越える売れ行きとなり、続編も刊行される。年老いた牧之は、刊行後間もなく他界するが、とにかく長年の念願はかなったのである。さて、『北越雪譜』そのものを読んでみたくなった。この作品では、『北越雪譜』の内容もなぜ江戸でそんなに評判になったのかは、残念ながらわからない。(2026・5)