カズオ・イシグロ『日の名残り』(早川文庫、2001)

  原題は、The Remain of the Day。1989年の作だから、もっとも初期のものである。イギリス最高の文学賞であるブッカー賞を受賞した作品である。『浮世の画家』など日本を舞台にした作品から一転して、これはイギリスのしかも貴族の世界を扱っている。しかも、主人公はイギリス貴族社会ならではの執事という職業につく男である。つまり、イギリスの歴史と伝統を代表する貴族社会を、貴族の館に仕える執事の目を通して描いているのである。日本人という外国人の目をとおしてだからこそ、イギリス社会の伝統を客観的に観察できたという見方もできようが、しかし、驚くべき才能である。

  永年ダーリントン卿に執事としてつかえてきたスティーブンスンは、卿が亡くなって屋敷ごとアメリカ人のファラディなる人物に渡ったのを機に、この人物にも進められて、国内旅行にでかける。ソールスベリーを手はじめに、イギリス西南部を新しい主人から拝借したフォードでめぐるのである。旅の途中で、最近手紙をもらった、かつて館の女中頭をつとめたミス・ケントン(結婚しているからミセス・ベン)に何十年ぶりかで会うという目的もある。あわよくば、この女性を新しい主人のもとで女中として再雇用したいという希望をもってである。

 スティーブンスンは旅をしながら、ダーリントン卿の執事としての自分の過去をふりかえる。そして、政治的にも有力な名望のある貴族に仕えてきた自分の仕事に誇りを感ずるとともに、執事としての品格をまっとうできたとおもう。この執事の目をとおして、主人を信頼し、ひたすらその命じるところをぬかりなく執行していく様子や、貴族たちの会食や政治家たちとの会席を多くの使用人、女中を指揮して準備し、切り盛りする芸当ともいうべき技をたんたんと紹介する。良い時代のよき思い出である。

 しかし、実はダーリン卿なる人物が、第一次大戦がドイツの敗戦で終わって、途方もない賠償金の支払いなど厳しい時代を経て、ナチス・ドイツが台頭する時代に、名誉ある貴族としての善意からではあるが、ナチスとの融和を主張し、事実上ヒトラーのイギリスにおける手先の役割をはたしていたことが明らかになっていく。ドイツの外務大臣のリッペントロップなどと親交を結び、自分の館にもしばしば招く。当然、スティーブンスンは執事として、その場に居合わせ、話の内容をも耳にしている。主人が明らかに判断を誤り、ナチス・ドイツに利用される役を演じているときに、主人の命に服することを任務とする執事はどうすべきか?これが、この作品が問いかける主要なテーマである。執事が政治や外交の問題に口をはさんだりすべきではない、主人を信頼してひたすらその命にしたがってこそ、執事としての品格というものである。スティーブンスンはそうした態度をとるのだが、はたしてそれでよいのか? ナチスに協力したドイツ人の多くが、自分は自分の持ち場で与えられた任務を遂行しただけだ、とみずからの責任を逃れようとした歴史的事実もある。時代とその流れの中で、一人ひとりの個人がどう責任をとるべきか、作者は、現代にも通じるこの重い問題にとりくんでいる。しかし、気負うことなく、スティーブンスンの回想をつうじて、おだやかに、ゆったりとした語り口で迫るのである。ここに、イシグロのイシグロらしさがあるといえよう。

 ミス・ケントンに巡り合った主人公は、この女性がかつて自分に思いを寄せていたことを知り、自分の過去に悔いもする。そして、夕日に照らされる橋にみとれながら、「一日のうち夕方が一番良い」という、隣り合わせた老人の言葉をかみしめる。(2017・11)

 

カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』(土屋正雄訳、早川文庫、2008)

  2017年のノーベル文学賞受賞作家の代表作の一つである。ヘールシャムという不思議な施設で温かく保護されながら育つ少年少女たちの交友に伴う微妙な関係や心理がいくつかのエピソードをまじえて紹介される。いったい、どういう展開になるのかはじめのうちはさっぱりわからない。しかし、この施設がただの養育院や孤児院でないらしいことは、子どもたちの感覚をとおしても、ここで働く先生や職員のようすからも読み取れる。こどもたちは、暗黙の了解のもとに生きている。しかし、成長とともに“自分達はいったいなにものか?”“どういう運命がこの先待っているのか?” といった疑問は当然ふくらんでいく。普通の子どもたちと同じように、遊び、喧嘩もし、恋愛も、セックスも体験しながら、子どもたちは自分に定められた使命はなにかをおのずと自覚するようになる。

 キャシーという聡明な女の子とその友達のルース、そして癇癪もちで問題児としていじめにもあうが、根はまじめな男の子のトミー、主としてこの3人の友情と恋愛、行き違いや和解といった、一つひとつはささいな日常のエピソードが、こまやかに愛情をこめた筆致で描かれていく。そして、やがて3人ともヘールシャムを出て、自立し、自らに与えられた使命を果たす道に進む。

   この子どもたちは、クローンとして人工的につくられた人間で、人間ではあるが、だれが親かも不明、結婚もできなければ、子どもも生めない、それどころか、必要とされる人間に自分の臓器を提供したら、それで使命を終わる、つまり、短い生涯を終えるのである。こうした悲しい運命をになった少年少女たちの物語である。

 つまり、科学技術が進歩し、人間は遺伝子操作でもクローンでも容易にできるようになり、臓器移植の技術も進歩して、病気になってもいくらでも治療し、延命できるようになる。しかし、その一方で、科学技術の進歩の犠牲にされ、虫けらのように使い捨てられる人間、ここではクローン人間がいる。科学技術の進歩がもたらすこの両極端に着目し、そうした近未来世界をえがきあげてみせたのが、この作品である。イシグロの目の付け所は、きわめて現実的なシリアスな世界である。核兵器や大量破棄兵器の生産と使用によって莫大な利益を手にする一握りの人間がいる一方、大量破壊兵器の使用によって命を落としあるいは生涯にわたって後遺症に苦しむ人々がいる。この現実を、イシグロはクローン人間の子どもたちの悲しい運命という形で描き出しているのである。先に読んだ『浮世の画家』が、戦争とそれに手を貸した善意の人間が戦後に直面せざるを得なかった宿命といった重い問題に切り込んでいたのと同じように、きわめてシリアスな現代的課題に向き合っているといってよいであろう。ノーベル文学賞が、下馬評の高かった村上春樹ではなく、イシグロに与えられた意味も、そのあたりにあるのではなかろうか。

 話は、臓器提供者の少年、少女たちに、例外として臓器提供を免除され、生き延びるチャンスが与えられる道があるのではないか、その可能性を追求してみようというキャシーとトミーが、最後に直面する壁へとすすむ。本当に愛し合っているカップルであることが立証されれば、そのチャンスが与えられる、そんな噂がヘールシャムの施設のなかで囁かれていたのである。さがし当てて訪問したヘールシャムの元校長先生、エミリと子供たちの作品を選び出していたマダムの口から語られたのは、クローン人間の子どもたちの人権を守る運動の挫折という悲しい現実であった。(2017・11)