私の八月十五日

 岩波新書『子どもたちの8月15日』を読んだ。山藤章二永六輔下重暁子ら33人が子どもでむかえた敗戦の体験を記している。国民学校1年生で敗戦を迎えた私とほぼ同じ世代の人たちの記憶は、共通するところが多く親しみと懐かしさを禁じえなかった。そこで私自身の記憶をたどってみたい。

 1945年春、国民学校に入学した私は、入学式もそこそこに山の中にあった父の実家に疎開することになったった。父の実家は山の中腹にある小さな集落のなかにあり、30分ほど歩いて通う学校は山を降ったところに本校があるいわゆる分教場であった。私が転校した時は疎開児童が大勢いたが、卒業するときは同級生11人であった。転校直後のことで記憶に残っているのは、4月29日、いわゆる天長節の日、學校で記念式典が終わると、40歳過ぎと思われる校長先生がそのまま出征するというので集落のはずれにある見晴らしの良い丘まで全校生徒が日の丸の旗をもって見送ったことである。その先生は帰ってこなかった。その日は空が晴れ渡り、丘から日本海や雪をいただく妙高など頚城三山が一望できたのを覚えている。

 私の8月15日、敗戦記念日のまえに記しておきたいのは、8月1日、一夜にして全市を破壊しつくした空襲のことである。異様な物音で庭に出てみると、東の空がこの世のものとは思えない美しい光でこうこうと輝いているのだ。アメリカの爆撃機B29の大編隊である。街が焼夷弾の雨で焼き尽くされていることなど知るよしもなかった私は、いままで見たことのない輝く夜空にただただ驚き見惚れるだけだった。B29はなぜか県都ではなく、となりの市に集中爆撃を加えたのか、いまもってわからないが、南から飛んできて間違えたのではないかというのが、私の推理である。

 さて肝心の8月15日だが、実はこの日の玉音放送について、私にはまったく記憶がないのである。おそらく野山をかけまわって遊んでいたのではないかとおもう。思い起こせるのは、その日の夜 のことである。近所の農民たちが集まってわが家のいろりを囲んでひそひそ話をしているのが耳に入った。アメリカ軍が上陸すると、男は皆殺しにし、女は残らず連れて行ってしまう、というのだ。私は恐ろしくなって、アメリカが来たら近くの山の炭焼き小屋に逃げ込もう、と本気で考えた。しかし、山の中に一日中隠れていたらお腹が減るだろうなと心配になる。空腹だけはがまんできない、さてどうしたものか、そんな思案をしていたのを覚えている。

 日本の敗戦は山村の生活にすぐには特段の変化をもたらさなかった。地主だった父の実家が農地解放で没落の運命をたどるのはもう少し後になってである。私は疎開するさいにミカン箱にいっぱいになるほど絵本をもってきていた。『マニラ敵前上』『ジョーホール水道陥落』などと威勢よく戦意昂揚をねらった軍国主義そのものの絵本。敗戦を機におそらく周りの大人がこんな本をもっていると危険だと警告してくれたのであろう。それまで大事にしていた何十冊もの絵本をすべて村の子どもたちに分け与えたという。自分にはそんな記憶は残っていいないのだが、後に親から終戦直後の私の行為として聞かされた。

  今も鮮明に覚えているのは、9月に入って二学期の始業式のことである。新しく就任していた校長先生はたしか隣村のお寺の住職で、関沢先生といったが、全校生徒をまえに文字通り泣きながら始業式のあいさつされた。恐れ多くも天皇陛下が私はどうなってもかまわないから、国民を救ってほしいと連合軍に直々にお頼みになった。わたしたちがいまこうしておれるのはありがたい天皇陛下のおかげである。陛下に心から感謝しようではないか、そんな内容であった。ポツダム宣言受諾・敗戦の詔勅を校長なりの解釈で子ども向けに解説したのであろう。私は、校長が涙をぽたぽた落としながら話すのを、なにか不思議な光景をみるような、違和感を持ちながら聞いたのを覚えている。そしてはじまった授業は、教科書の墨塗であった。それまで学びこれから学ぶ教科書の大半を墨で塗りつぶして読めなくするのである。タブロイド判で仙花紙の新しい教科書が配られたのはそれからしばらくしてからであった。私の8月15日はそんな思い出で彩られている。