囲炉裏で大やけど

 そのころの農家にはどこでも居間に囲炉裏があって、薪を燃やしていた。炉には自在鉤なるものが天井からつるしてあって、これに煮物などの大きな鉄鍋をかけているのが日常であった。囲炉裏の火の近くの灰のなかに、餅ややきもちを入れて焼いたりもした。学校に入る前の年の冬、たしか5歳のときだが、わたしはこの囲炉裏に差し入れてあったよく滑る薪にうっかりさしのべた手がすべって、ぐつぐつ煮えた鍋に頭をぶっつけ、鍋をひっくり返して燃え盛る火のなかに突入して、顔面に大やけどをおう事故をおこした。

 年老いた祖父母は、あずかった児に大けがを負わせ、さぞや仰天もしたであろう。顔の大半が火ぶくれになって泣き叫ぶ私を、おろおろしながら抱きかかえ、民間伝承に従って梅干しの紫蘇の葉を火傷の皮膚にのせて冷やしてくれた。翌日の朝から、わが家に隣接していた分家のおっかさ(嫁さん)に命じて、わたしを負ぶって約一時間降った里にある診療所まで毎日治療に通わせてくれた。分家は、わたしのところの小作農で、当時は小作はたんに田畑を借りるだけでなく、半ば人身的にも地主に隷属させられていたから、祖父の指示には無条件で応じなければならなかったのである。

 分家のおっかさの背に負われ、雪深い道をかくまきにくるまれて診療所に通ったことを、かすかに覚えている。診療所の医師は、火ぶくれの顔に巻いた包帯の交換のさい痛さで泣き叫ぶ私に、「男の子のくせになんだ。そんなことでは兵隊に行けぬぞ」と声を荒げて叱責した。当時、「兵隊に行けぬ」は男児にとって最大の殺し文句だったのである。 

 何日かして母があわてて私を連れにきて、新潟へ帰る。そこで専門の外科医院に通って治療を受けることになった。春先のみぞれのなかを、人力車に乗って医院に通ったのをかすかに記憶している。おかげで、私の火傷はよく見ないとわからないほどわずかな痕を残すのみになるまで回復した。もし、祖父のもとで診療所に通うだけだったら、おそらく顔から頭にかけてケロイド状の火傷の大きな痕残っただろう。

 そういえば、私の通った小学校は全校生徒百人足らずだったが、その生徒の中に何人も頭が禿げたり、顔にケロイドのひろがる子どもがいた。みな、囲炉裏に転落して火傷を負った痕である。隣の分家に、わたしより一歳下の女の子がいたが、この子も頭の半分に毛髪がなく、残りの半分にある毛髪で禿げた部分をなんとか隠そうと苦労していた。思春期をむかえたころ、この子の願いは一日も早く働きに出てお金を貯め頭の整形手術をうけることだった、と後に分家の親から聞いたことがある。

 囲炉裏は、日本人にとって懐かしい原風景の一つではある。高級な和風旅館などで囲炉裏が仕切ってあり、それを囲んで酒盛りをしたり、団らんをするもてなしが一つの流行になっている。それはそれで、好ましいことではあるが、囲炉裏には私が体験したような悲惨な事故がつきものだったことも、忘れてはならないように思う。