角幡唯介『極夜行』(文芸春秋、2018・2)

 著者は、探検家でノンフィクション作家。1976年生まれ。チベットの「謎の渓谷」と呼ばれていたヤル・ツァンボー渓谷を二度にわたって単独で探検(2002~2003、2009年)し、二度目の探検を描いた『空白の5マイル』で、開高健ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞などを受賞した。この本は私も読んだことがあり、その冒険心と勇気に加えて、筆力に感心した記憶がある。今回の著書を読む気になったのもそのためである。

 極夜行とは、北緯78度以北の極地を太陽の出ない冬の季節に単独で旅をすることをいう。具体的には、グリーンランドの北西部北緯77度にあるシオラバルクという村落から、途中アウンナット、イヌアフィシュアクというデポ地を経て、79度の北海ダラス湾まで、約4ヶ月かけて往復を歩き切ったのである。著者によると、探検といっても地球上にもう処女地はなくなっている、しかし、太陽の出ない季節、闇の中で極地を歩いた人はいないという。だから、極夜行なのだというのである。角幡はこれを、システムからの離脱と名付ける。すなわち、文明のなかにある現代では、すべて人工的になっていて人間がありのままの自然そのものに触れ合う機会はなくなっている。この現代文明のシステムから離脱してこそ本物の自然と向き合うことができる。それが極夜行だというのである。

 実際の旅は、2016年11月から始まる。橇二台に自分と犬の食料、生活用品を積んで出発する。まずメーハン氷河という高度1000メートルを超す氷河を渡り切らなければならない。橇をひいての重労働に加えて途中でブリザードに二度も出会う。立っていることもできない猛吹雪である。テントを飛ばされないように厳重に注意しながら何日も停滞を余儀なくされる。ようやくこの氷河を超えると氷原に出るが、一日中陽が射さないのだから、目で地形を確かめることも、方角を定めることもできない。頼りになるのは、コンパスと晴れた日の星と月である。しかし、極夜では山も丘も氷柱も明確な形をとって視覚にはいってこない。ただぼうっとした状態で視認できるだけである。それは、文字通り、システムを離脱した状態である。

 昼と夜の区別がないから、行動するには星か月が出る夜の方がよい。ようやく最初のデポ地、アウンナットに着く。ところが、苦労してデポした食料はシロクマに襲われて影も形もなくなっている。やむを得ず、食料を節約しながら次のデポ地、イヌアフィシュアクをめざす。方向を定め針路を誤らないよう細心の注意をしてようやくイヌァフィシュアクに到着する。ここのデポは、イギリス探検隊が置いて行った食料などとともにきちんとしたパックに収容されているから、よもやシロクマに荒らされることはあるまいと、信じ切ってきた。

ところがここも荒らされている。食料なしに旅を続けることはできない。角幡は、残った食料を思い切って切り詰めるとともに、麝香牛かせめてウサギ、キツネなどを射止めようと考える。そのため氷原やツンドラの中をさまよう。しかし、獣の足跡は結構目にするが、姿はあらわさない。食料を切り詰めた犬は、がりがりに痩せていく。最後はこの犬を殺してその肉で生き延びるしかない、角幡は絶体絶命にまで追い詰められる。ようやくキツネを射止めてほっとするが、帰りの最後に待ち受ける氷河で再びすさまじいブリザードに遭遇、何日も停滞を余儀なくされる。しかしついに待ちに待った太陽が姿をあらわす。村に在住する日本人との携帯電話による交信で気象情報を確かめつつ、ついに帰還の日を迎える。 

 著者が言うように、この探検は何年もかけての事前調査、現地体験によって周到に準備されてきた。それがあって初めて可能になったものである。そのレポートが、東京医科歯科大病院で夫人が苦しみながら第一子を産む現場のレポートから始まっているのも、ユニークである。赤子が産道を通って明るい世界に出てくるのと、極夜から光の世界への帰還をだぶらせているのである。(2018・7)