ヴィクトール・K・フランクル『夜と霧 新版』(池田香代子訳、みすず書房、2002)

 ナチスアウシュビッツ収容所での体験を記録した有名な本書は、若いころに当然読んでおいてしかるべきであった。しかし、著者のフランクルが、フロイド系の精神科医であることへの違和感もあって、そのうちそのうちにと思いながら、ついに読まずにきた。最近になって、訳者の池田さんの講演を聞きに行った妻が訳者のサイン入りの本書を購入してきたのを機会に、ようやく読んでみようかという気になった。感想を一言でいえば、やはり知識人であり心理学の専門家ならではのすぐれた観察と分析があり、人間存在とはなにかについて深く考えさせる良書である。

 著者をふくむ1500人のユダヤ人は、ある日突然、ウイーンから荷物同様に貨車で何日も移送される。突然収容者の一人が叫ぶ。「駅の看板がある――アウシュビッツだ!」と。人々は、底なしの恐怖のなかへ追いやられる。そこでまず人々を襲うのは収容ショックである。溺れる者は藁をもつかむという。死刑執行をまえにした囚人は、恩赦妄想にとらわれるという。自分は恩赦になるのではないか、という妄想である。貨車から降ろされ、縞模様の囚人服を着た収容者の群れに放り込まれた収容者たちは、まずそんな妄想にとらわれるという。

 収容所生活で次に襲ってくるのは、感動の消滅だという。いっさいの人間的な感情が鈍化し、消滅してしまうのである。虐待と非人間的扱い、極端に悪い栄養状態と衛生にたいする人間の保存本能、自己防御反応であるという。苦しむ人間、病人、瀕死の人間、死者のどれを前にしても、何の感情も湧かなくなる。数週間の収容所生活で見慣れた光景になり、心が麻痺してしまうのである。死体がころがれば、その靴を奪い、衣服をはぐ。それが当たり前になる。そういう収容者の中でも、たえず選別がおこなわれる。ガス室へ送られるものと強制労働に就かせられるものの選別、監督や炊事当番に抜擢されるものと、その指図に従うものとへの選別など。そして選りだされた者のなかには、一般収容者にたいしてゲシュタポ以上に残虐な暴力をふるうものがいるのもめずらしくない。

 収容者における人間の「退行」は、収容者の夢に典型的に表れるという。美味しいパンの、たばこの、ゆったりしたお風呂の夢等々。「未来を失った状態」「生きるしかばね」こそ、収容者たちを形容するにピッタリだという。そうした極限のなかで、人間らしさ、とりわけ人間の自由はどうなるのだろうか? 著者はこの問題について、考察をすすめる。あらゆる肉体的精神的自由を奪われ、ほしいままの虐待にさらされて、人間らしさはどこに残るのか? 頭の中で妻と会話をかわし、自分の過去を思い出すこと、これらは、どんな強制と過酷な現実によっても奪うことはできないと、著者は自分の体験から証言する。著者はいう。「人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りの言葉を口にする存在でもあるのだ」と。

 収容所からの放免の際に直面する心理についても、述べられている。極度の緊張状態から解放された人間は、場合によっては精神の健康を損ねるという。権力、暴力、恣意の客体だった人間が、解放とともにその主体に転嫁することもある。また、夢にみた家族の喪失に直面して呆然自失するケースもある。「新たに手に入れた自由のなかで運命から手渡された失意は、のりこえることがきわめて困難な体験であって、精神医学の見地からも、これを克服することは容易ではない」。奇跡的に生きのびた著者もまた、最愛の妻の喪失という現実に直面しなければならなかったのだ。(2018・7)