奥泉光『雪の階』(中央公論新社、2018・2)

 作者は、1956年生まれ。94年に『石の来歴』で芥川賞、2009年に『神器』で野間文芸賞、2014年に『東京自叙伝』で谷崎潤一郎賞を受賞している。現在、芥川賞の選考委員をも務める。近畿大教授。以上の経歴からわかるようにベテラン作家である。しかし私が作品を読んだのは今回が初めてである。感想を一言でいうなら、1936年の陸軍青年将校によるクーデタ未遂、2・26事件前夜を舞台にしたミステリー仕立ての重厚な物語である。

   この作品は、武田泰淳の『貴族の階段』、または松本清張の最晩年作『神々の乱心』にヒントを得ていると言われる。武田の作品は読んでいないのでわからないが、松本の作品は比較的最近読んでいるので、なるほどとうなずかされる。皇室と新興宗教といういわば禁断のテーマに大胆に踏み込んだ作品である。『雪の階』も皇室や宗教をあつかうが、それは本来の純粋な日本と日本人を再興するために外来の血で汚された天皇による支配、国体を否定し、天皇制を一掃せよと主張する超右翼思想を特徴としている。

 女子学習院に通う惟佐子は、笹宮伯爵の令嬢である。和服の良く似合う美貌の持ち主であるとともに、なみはずれた才知に富み、数学と囲碁を趣味としている。親友の女学生で書にたける宇田川寿子が、いっしょに参加するはずの音楽会に姿を見せない。不審におもっていると、仙台の消印があるハガキがとどき、約束をほごにしたわびと再会への期待が記されていた。ところが、翌日、富士山の裾野の青木ヶ原で、寿子とある陸軍中尉との心中とおぼしき死体が発見される。寿子が妊娠中であることも判明。青木ヶ原で死ぬ人間がなぜ仙台からハガキをよこしたのか、疑問におもった惟佐子の探索がはじまる。

 華族の令嬢には、こどものころ“おあいて”なる付き人がつく。惟佐子は、元“おあいて”で今は新進の女性カメラマンになっている牧村千代子に相談を持ち掛け、牧村が知り合いの新聞記者、蔵原に協力を求める。こうして、華族の娘と二人のジャーナリストによる謎解きが始まる。おりしも、天皇機関説の排撃を説く右翼、陸軍などの不穏な潮流が跋扈し、惟佐子の父の笹宮伯爵は、その急先鋒となっている。そのため笹宮家には、陸軍将校や右翼、政友会メンバーなどの出入りが絶えない。惟佐子の10歳違いの兄も近衛師団の将校である。千代子と蔵原は、ハガキの発信地仙台におもむき、寿子の足跡を追うなかで、茨城県の鹿島にある紅玉院なる尼寺に行きつく。そこの庵主が霊能をもつとの評判で、皇族や高級軍人夫人などの出入りが絶えないという。庵主の素性を調べていくと、意外なことにこの庵主こそ、純粋な日本人の血を汚す天皇の排除を説く大元であることがわかってくる。寿子がこの寺をたずねたようだが、いったいどういうつながりがあるのか?

 謎がいよいよ深まるなか惟佐子は、来日したドイツ人のピアニストの演奏会に招かれる。ピアニストは、カルトシュタインといいドイツ心霊音楽協会なる団体の一員で、在独中の惟佐子叔父とつながりがある。叔父をつうじて惟佐子のことを知り、惟佐子に日光への観光案内を依頼してくる。そしてこのドイツ人が宿泊した旅先の宿で変死する。実はこのピアニストは、ナチスとつながっている。この事件の背後にも惟佐子の兄の影など不穏な動きが察知される。こうして謎は、国際的な広がりをもふくみつつ、幾重にも重なっていく。そして、惟佐子の兄をもまきこんで陸軍青年将校らの決起の日が刻々と迫る。クーデタの前々日、2月24日の夜、東京には、年来にない大雪が降る。2・26当日の東京は一面銀世界であった。

 軍部、政界をふくむ激動の歴史的背景と国際的な陰謀をうかがわせるスケールの大きな舞台設定で、右からの天皇制否定など独特な極右思想の持ち主を軸に、物語は重層的に展開されるのだが、事件の謎そのものは意外に平板な結末に終わる。その意味では、大ぶろしきのわりに、思想的な内容は乏しいというのが私の実感でもある。(2018・8)