松本清張『空の城』(文春文庫)

 10大総合商社の1角をしめていた安宅産業が、カナダのニューハンプシャー州のカンバイチャンスに巨大製油所NRCを建設して石油事業に乗り出したが、第4次中東戦争による原油価格の暴騰に遭遇するなどして破綻、伊藤忠商事に吸収合併されたのが、1977年である。3500人が働く大商社が突如として姿を消した戦後日本経済史上の大事件であった。この事件を題材に、その翌年『文芸春秋』に連載されたのがこの作品である。安宅産業が姿を消すまでの全過程とその真相を、現地取材をふくむ克明な調査をふまえて徹底的に究明、渾身の力をこめて描きあげている。日本の古代史をテーマにした作品でも、『日本の黒い霧』をあばく昭和史シリーズでもそうだが、この作者の取材、調査への全力投球にはただただ敬服するほかない。アメリカ、カナダ、イギリスなど国際的な舞台で繰り広げられた複雑で奇々怪々な経済事件の全容を、それが明るみになった翌年にこのような作品に仕上げたのだから驚くほかはない。

 江坂産業(安宅産業)は、レバノン系のアメリカ人起業家、投機家アルバート・サッシン(実名はシャヒーン)と組んで、カナダ・ニューハンプシャー州直営の石油精製所の代理店として石油事業に参入する。BP(ブリティッシュ・ペトロリウム)などが君臨する石油帝国への新たな参入である。無人の地に突如現れた巨大な製油所の開所式は、豪華客船、エリザベス・クイーン号を借り切って現地へ乗りつけるというスタンドプレイで華々しく幕を開けた。主宰者のサッシンはもとより、江坂の河合社長、米沢副社長もタキシード姿で出席、イギリスの元首相のチャーチルの息子など各界の著名人も多数参加する。なかでも立役者は、江坂の系列会社、江坂アメリカの社長である上杉二郎である。日系二世で英語が堪能、サッシンと特別に親しく、この事業を立ち上げる立役者となった。NRCの製油所は、当面日産10万バーレル、第2、第3の製油所の建設も予定しており、ゆくゆくは日産30万バーレルを見越している。イギリス資本のBPから原油を買って大型タンカーでカンバイチャンスまで運び、ガソリンなどに精製してアメリカ、カナダなどに売りさばく。前途はようようたるものと期待された。

 ところが開所祝賀会の最中に第四次中東戦争勃発のニュースがとびこんでくる。江坂が購入する原油価格は暴騰、一方、製油所では最新式の設備の操作不慣れから事故が続出、加えて従業員のストライキが勃発、予想もしなかった赤字が続き、その額はたちまち数億ドルに膨れ上がっていく。江坂産業は、新興企業だが、社内は創業者のワンマン経営時代からつづく派閥抗争などで近代的な経営になっていない。そのうえ、創業者のあとを継いだ現社主・江坂要蔵は、白磁などの骨董に熱中していて、業務には背を向けている。それでいて人事権だけは握って離さない。そういう経営体質もあって、石油事業での失敗による打撃に歯止めがかからず、経営破綻へと追い込まれていく。作者のていねいな筆でその顛末が克明に描かれていく。

 多くの登場人物のなかで、詐欺師まがいの起業家アルバート・サッシン、野心を募らせる上杉二郎、そして、骨董に夢中になって事業を顧みない江坂要蔵と、この3人に作者の的はしぼられていく。サッシンはレバノン人であるため、アメリカ社会でユダヤ人のように差別されてきた。上杉もハワイ系二世としてさげすまされてきた経歴をもつ。こうした境遇をバネにのし上がる人間と、大企業の創業者の跡継でいながら、自分の趣味だけに生きる要蔵と、この3人の対照的な生きざまに向ける作者の眼には、学歴の無い石版工として下積みに苦しんだ作者自身の体験が重なっているといえようか?(2018・10)