松本清張『棲息分布』(文春文庫)

 戦後、石油業界に進出して破綻した安宅産業という商社を題材にした経済小説『空の城』(文春文庫)を読んで面白かったので、同じ系列の作品として本書に手をのばした。1966年~67年にかけて書かれた作品である。前作が膨大な資料を駆使して安宅産業の石油事業への進出から破産までをていねいに描き出していて感心したのだが、この作品は、田中彰治や小佐野賢治、児玉義誉士夫らをモデルにしているようだ。しかし、話は経済問題もからむが、その中心は次第にどろどろした男女の関係に移っていき、その意味ではちょっと期待外れであった。

 戦後、一代で財閥を築いた鉄鋼王の菅沼丑兵が、伊東の別荘の大浴場で30人の裸女に囲まれながら突然死をとげるという、ショッキングな話から物語は始まる。この鉄鋼王の話かと思うと、そうではなく、菅沼の影に隠れた存在であった系列会社の社長、井戸原俊敏が表にでてくる。菅沼の東洋鉄鋼は、実は粉飾決算などで覆い隠していたが経営危機にあり、多額の出資でそれを救っていたのが井戸原であったからである。井戸原は、菅沼につぎ込んだ資金の返済を次代社長にせまり、系列の建設会社などを譲渡させるとともに、次期総理大臣候補と言われる政務次官に接近して、政界との太いパイプを力に建設業界に乗り出そうとする。井戸原はいったいどこから莫大な資金を手に入れたのか。その謎が一つの柱である。

 井戸原は自分の経歴を明かさない。彼は戦時中、軍需省で軍属として働いていた。敗戦直前に省の上層部と組んで膨大な軍需物資の横流しをおこない、それによって得た富が戦後経済界に進出する資金源となったのである。この井戸原の過去を知っている人物が一人いた。井戸原の会社の根本常務である。根本は、戦時中憲兵将校で、井戸原らの軍需物資横流しを察知し、重大軍事犯容疑で井戸原らを拘束して取り調べ中に敗戦をむかえる。捜査はうちきられ井戸原らは釈放される。この弱みを握られた井戸原は、自分の社の常務として根本を遇し、一番の側近として相談相手にしていたのだが、社会的地位が高まるにつれ、根本を次第に疎んじるようになる。そのことを察知した根本は、井戸原に対して逆襲をくわだてる。これがこの作品の最大のテーマである

 井戸原には初子という妻がいる。旧華族の血を引く名門の出である。井戸原は初子の他に、美奈子という女優をホテルに囲っているが、これに飽きて若い女優である瑞穂高子にのりかえつつある。一方、初子にはプロ野球の選手で山根という青年の恋人がいる。二人が香港へ旅をしている最中に、スポーツ記者の森の目にとまり、スキャンダルのスクープ種にされかかる。元憲兵の根本は、森を買収するなどしてこれらの事実をつかみ、それを材料に井戸原をゆさぶりにかかる。夫に浮気をさとられる危険を感じた初子は、山根に手切れ金をわたして関係を断つとともにともに、山根が瑞穂高子とつきあっていることをつかんで、山根と瑞穂の縁談のまとめ役を果たし、その結婚の媒酌を井戸原とともに買って出る。こうして、自分と夫の愛人を結婚させることで、自分たちの不倫の発覚を抑えるというのだから、不徳の極みである。井戸原に対する根本の追及、追い落とし作戦は、井戸原の経歴や男女関係のスキャンダルを活字にして流すことで成功するかにみえたが、そうはいかなかった。根本は、森田に書かせた暴露文をマスコミや政財界要人に送り付ける。その結果、根本の期待は完全に裏切られる。後半はこの男女の入り乱れた関係に筆が流れて、私の興味からは外れていく。(2018・10)