ナオミ・クライン著『「ノー」では足りない――トランプ・ショックに対処する方法』(幾島幸子、新井雅子訳、岩波書店)

 

 カナダ人の女性であるこの著者の前作『ショック・ドクトリン――惨事便乗型資本主義の正体を暴く』や『これがすべてを変える-ー―資本主義vs気候変動』(いずれも岩波書店)は、新自由主義がもたらした極端な儲け第一主義とそれによる富の偏在、格差の拡大、貧困、モラルの崩壊、地球環境の危機などの実態を、世界中を歩いて時間をかけて取材し、じっくりとまとめ上げた力作である。しかも事態の打開のために何が必要かを積極的に提起していて、これぞ真のジャーナリストと私は評価してきた。今回の著作は、トランプの大統領当選というショッキングな事態に直面して衝撃を受けた著者が、一気に書き上げたという。これまでの取材の蓄積を集大成して、トランプ現象とはいったいなにか、どうしたらこの事態を克服できるかという問題に真正面から挑んでいる。

 本書で著者の言いたいことの第一は、トランプ現象は奇跡でもたまたま生じたものでもないということである。「本書で私が言いたいことをひとことで言えば、トランプは極端な人間ではあっても、異常というより一つの論理的帰結――過去半世紀に見られたあらゆる最悪の動向の寄せ集め――にすぎないということだ。トランプは、人間の生を人種、宗教、ジェンダーセクシャリティ、外見、身体能力といったものを基準に序列化する強力な思考システムの産物に他ならない」(11)という。「女性の性器を相手の承諾なしにつかめると豪語し、メキシコ人を『レイプ魔』呼ばわりし、障碍者を嘲笑う億万長者の米大統領は、超富裕層に見苦しいほど大幅な免除を与え、“勝者独り勝ち”の競争にうつつを抜かし、あらゆるレベルで支配を基盤にする論理の上に築かれた文化の当然の帰結であり、その表象にほかならない」(312)ともいう。

 つまり、資本主義、とりわけ新自由主義による規制緩和とむきだしの利潤追求、あくどい搾取、弱者追い落とし、そして不満や矛盾を人種差別や女性差別、移民攻撃などによってかわし、そのためには、嘘もヘイクも恥じないという、アメリカ資本主義そのものが生み出した極端な現象の必然的な到達点であるというのである。だから次の指摘は重要である。「地球上の再富裕層が自分たちに利するように作り上げたシステムの冷酷さに立ち向かうことのできるのは、本来なら左派の領分だ。しかし、9・11以後、政治的スペクトルの進歩派側に属する人々の大半が怖じ気づき、右派に経済的ポピュリズムの空白を悪用する隙を与えたというのが偽らざる現実である。政治は空白を嫌う。もしそれが希望で満たされなければ、誰かが恐怖で満たすのだ」(138)」 この空白を恐怖と脅し、虚言で満たしたのがトランプだというわけである。

 ここから本書の第二の主張がでてくる。すなわち、トランプに「ノー」を突き付けるだけでは問題の解決にならないとい。トランプ現象を生み出した社会のシステム、人間の価値観そのものを根本から変えなければ、問題は解決しない。「白人至上主義と女性蔑視が歯止めなくはびこり、地球の生態系が崩壊の瀬戸際のあり、公的領域の最後の名残が資本によって飲み込まれようとしている今、ただ越えてはならない線を引いて、『ノーモア』と言う以上のことが必要なのは明らかだ。そう、それをすることが必要であり、そして同時に今とは違う未来に向けての、情熱をかき立てるような確かな道筋を描くことが必要なのだ」(264~5) すなわち変革のビジョンが必要だというのだ。そして、カナダの先住民をふくむ多種多様な運動のリーダーたちと膝詰めでつくりあげたそのためのマニフェストが紹介される。「取る」「奪う」ことを中心にした社会ではなくお互いに「ケア」しあう社会をというのが、マニフェストの核心である。そこでは、自然エネルギーへの思い切った転換にとどまらず、新しいエネルギーをコミュニティが民主的に管理する「エネルギー民主主義」が唱えられる。しかも、猶予はできない、漸進主義ではだめだ、「今こそ大胆になるべき時だ。今こそ飛躍(リース)すべき時が来たのだ」(330)というのが、このマニフェストの最大の特徴である。その名も「リース・マニフェスト」である。これは、私たちが永年唱えてきた本来の社会主義革命に限りなく近いものである。このマニフェストがカナダの各界から予想を超えた共感を呼んで、支持が広がっているところに、著者は未来への希望を見出している。(2018・12)