ヘニング・マンケル『イタリアン・シューズ』(柳沢由美子訳、東京創元社、2919・4)

 主人公の元外科医で66歳のフレドリック・ヴェリーンは、スウエーデン東海岸にある群島の突端に位置する小さな島に、老いた犬と猫といっしょにたったひとりでひっそりと住んでいる。ときたま船でやってくる郵便配達人のヤンソンと一言二言言葉を交わす以外に、外界との接触はいっさいなく、過去とも未来とも完全に切断された、文字通り失意と孤独、絶望のうちに日々をおくっている。彼はこの12年の間、世間から隔絶され誰から顧みられずも、凍てつく冬にも海を覆う氷に穴をあけて刺すような冷たさの海水に身を浸すという苦行を日課としてもきた。作者はここに、高齢化のすすむスウェーデン社会で少なくない老人が置かれているきびしい状況を象徴的に語っているのかもしれない。

 そんな暮らしを続けるヴェリーンのもとに、真冬のある日、氷の海のかなたから歩行器にすがる一人の年とった女性が訪れる。双眼鏡をとりだしてよく見ると、どこかで見たことのあるような面影である。しばらくするとその女性は力尽きて海氷のうえに倒れてしまう。あわててかけつけるヴェリーンに、突然、過去がいっきになだれ込んでくる。その女性がだれなのか、そして自分がなぜこのような孤島に隠れ住むようになったのか、遠い記憶が一挙によみがえってくるのである。女性は、今から40年前に、自分が理不尽にも理由も告げずに一方的に捨てた恋人であった。そして自分がこの島に流人のように住むことになるのは、外科医として取り返しのつかない失敗をして、その世界に居続けることが出来なくなったからであった。

 ヴェリーンに助けられて意識を回復した女性ハリエットは、末期癌で余命はいくばくもない。彼女は、ヴェリーンに姿を消す前に自分にした約束を果たしてほしい、そのためにはるばる訪ねてきとうちあける。その約束とは、ヴェリーンが子どもの頃に父と訪れたことのあるスウェーデン北部の森の中にある湖にハリエットを連れていくという約束であった。「それは私が生まれてからいままでの間にもらった約束の中で一番美しい約束だからよ」と、ハリエットは言う。

 こうして、歩行器なしには歩くことのできない重病のハリエットをともなっての旅が始まる。スウェーデンの北部地方は、きびしい自然環境のなかで居住を放棄された集落が点在し、そこには都会の営利と過度の競争になじめい芸術家や職人がぽつぽつと住み着いてもいる。本作の題名になっている「イタリアン・シューズ」をつくるイタリア人の名工もその一人である。40年ぶりの旅をするヴェリーンとハリエットは、飼い主の死を知らせるためにさまよう犬に出くわしたり、たどり着いた湖の氷が割れて凍死しかかったヴェリーンをハリエットが死力をつくして助け出すなど思わぬ事件に次々と出くわす。そして、予想もしなかった人物にも出会う。

 この旅をつうじて、ヴェリーンは次第に隔絶されていた社会とのつながりを取り戻し、人々とのきずなをも回復していく。それは一人の老いて孤独な人間の人間としての再生、復活の物語でもある。

 スウェーデン出身の作者は、2015年に67歳でなくなっている。本作は、2005年、作者が58歳の時に発表された。もともとこの作者は、推理小説の世界で知られ、刑事クルト・ヴァンダラーを主人公にしたシリーズで知られている。この作者が一念発起して書いたのが本作で、スウェーデンでは「マンケルの最高傑作」あるいは「究極の恋愛小説」として高く評価されているそうだ。作品は北欧はもとより国際的にも評価が高く、フランスでは200万部を超えるベストセラーになったという。確かに、美しいスウェーデンの自然を背景にした、重厚で深い内容をもった力作である。(2019・7)