新春の甲斐大和・嵯峨塩館へ

 正月のうちにどこか温泉へ一泊旅行でもと、例によって次女の提案で、中央線甲斐大和駅から大菩薩峠にむかう山道を奥深く入ったところにある一軒宿、嵯峨塩館で一泊ということになった。嵯峨塩館というのは、武田信玄隠し湯だったところにあり、明治35年の開業という。宿のほかに見物するところなどはなにもないが、たまには山奥の一軒宿でゆっくり温泉に浸かって過ごすのも悪くはないだろうというのが、ここを選んだ理由である。

 なつかしい甲斐大和へ 

 新年最初の日曜日となる5日午前10時過ぎに町田の自宅を出て、横浜線で八王子へ、そこでお弁当を買って、中央線の電車で高尾まで行って各駅停車の列車にのりかえる。しばらくぶりに窓外の冬景色を眺めながら、藤野、相模湖、猿橋、大月、初狩をへて、午後1時少し前に甲斐大和(旧名、初鹿野)駅ににつく。ここは、私が元気なころ大菩薩峠へ連なる甲州アルプスの南端に位置する大蔵高丸(1781メートル)、ハマイバ丸(1752)、大谷ヶ丸(1644)という山々の縦走にたびたび出かけたさいの降車駅である。ここから約40分歩くと景徳院という由緒あるお寺がある。戦国の世、徳川家康に敗れて敗走した武田勝頼が自害した地にその死を悼んで家康が建立したという寺である。古い山門があって、これが当時を偲ばせる。高山植物の多いなだらかな縦走路を歩き終えてくだり、この寺で一息ついて帰ってくるのが定番であった。宿から迎えの車が来て、このお寺の脇を通って山道に入り、上日川峠、上日川湖(大菩薩湖)にむかって山道を約20分もはいると、日川の清流のほとりにたった一軒だけ建っている嵯峨塩館に着く。古い民家のような和風のひなびた宿である。

 玄関を入ると、女将らしき人が迎えてくれた。田舎旅館らしいたたずまいのフロントですぐ目に入るのは、後ろ足でたつヒグマの剥製である。かかえるような巨木の木肌を磨いた置物もある。奥には囲炉裏が仕切られており、自在鉤に鉄鍋がかかっている。通されたのは沙参という純和風の部屋で、堀炬燵に座布団がしつらえられている。窓からは、日川のせせらぎを見下ろせる。川岸の山肌には、一昨日降った雪がところどころに残っていて、いかにも冬らしい寒々とした趣をかもしだしている。

 少し休んでまだ夕食には間があるので宿の周りの遊歩道を散歩する。道は川に沿って登っており、木道などを敷いてはあるところもあるが、足場が悪く、歩きにくい。ここで妻がバランスを崩して尻もちをつき、腰をしたたか打ったが、幸い骨などに異常はないようだ。部屋に戻って、風呂に入る。露天風呂もある浴場には、先客が一人いただけでとても静かで落ち着いて湯に浸れる。内湯で身体を十分に温めたうえで、思い切って寒い戸外の露天風呂におもむく。雪景色のなか風流このうえない。

 

 夕食時の突発事故

  夕食は、一階にある和風の部屋でテーブルに椅子がけである。ビールと甲州ワインで乾杯。料理は、山菜などを主体にしたオードブルに始まり、鴨鍋、つぐみの焼きものと次々にくりだしてきて、たちまち腹いっぱいになる。ところがここで大ハップニング。黙々と食べていた妻の様子が突然おかしくなる。隣に座る娘が気付き、呼びかけたり、肩をゆすったりするが、反応がないのである。私も声を荒げてよびかけ、ほほをたたいたりするが、びくともしない。要するに、何が原因かわからないが、突如、意識不明に陥ってしまったのだ。アルコールのせいかとも一瞬思いめぐらすが、乾杯程度で酔うほどの量はのんでいない。真理が脈をとると、ほとんど聞こえないという。まわりで食事中の客や女将も気づいて駆けつけ、一時は大騒ぎになる。からだを横にして、頭に冷たいタオルをのせたり、足の下に物を入れるなどするが、反応がない。とっさに私の頭をよぎったのは、このままあの世に行ってしまうのではないか、という想念である。人間の命とははなんとかないものか、永遠の別れはこんなふうに唐突にやってくるのかと、そんな思いも瞬時にひらめく。そうこうするうちに、なんとか意識がもどる兆しがうかがえるようになる。顔の表情にも多少の変化がみられる。しばらくそのまま寝かせておくと、やがて何とか起き上がろうとするようになる。娘が支えて部屋に連れ帰り、ベッドに寝かせる。痛みとか苦しさはないようだし、嘔吐などもない。安静にしてそのまま寝かせておけば、回復するようなので、一安心する。

 しかし、とにかく原因不明であるから不安である。その夜は、時々目をさまし、そのたびにちゃんと呼吸しているかどうか確かめ、何度も確認した。翌朝は、元に戻ったようなのでひとまず安心だが、虚血性の脳障害などもありうるので、一度精密検査を要する。

 

塩山の甘草屋敷へ 

 6日朝6時に起床、まず朝風呂に浸かる。とても寒いが、露天風呂に入って星空をながめる。まだ薄闇のなか周囲の林の木々の根元にひろがる残雪がほの白く輝く。浴場には私のほかは誰一人いない。ひげも剃ってさっぱりした気分で、日課となっている散歩に出かける。そとは、厳寒で、あとで聞くと零下8度であったという。宿の前の道なりにのぼっていく。道路脇にはうっすら雪が残り、凍結しているから滑りやすい。用心しながら慎重に歩いていくと、周囲が次第に明るくなり、やがて富士山が木陰からのぞめるようになる。その姿をカメラに収めて早々にひきあげる。

 朝食後、さてきょうはどこへ行こうか、という話になる。このまままっすぐ帰ると、昼頃には自宅に着いてしまう。かといってこの周辺にはなにもない。次女の提案で甲斐大和の2駅先の塩山駅すぐ近くに「甘草屋敷」というのがあって、重要文化財にも指定されているがどうか、ということになる。さほど食指も動かないが、かといって反対する理由もないので、同意する。駅までは、宿の車でおくってもらい、塩山へむかう。塩山は、乾徳山や西沢渓谷へむかう下車駅で、かつてはたびたび下車したところだが、「甘草屋敷」というのがあるとは知らなかった。塩山駅北口に降りると武田信玄の大きな胸像があり、車道を渡るとすぐそこに「甘草屋敷」がある。

 「甘草屋敷」とは、江戸時代に薬用植物の甘草を栽培して幕府におさめていた高野家の居住宅で、19世紀初めに建てられた純和風建築である。甲州を代表する古民家として、1953年に重要文化財に指定されている。旧所有者から建物と敷地が市へ寄贈されたのを受けて、平成13年、建造物と屋敷が一体となって「薬草の花咲く歴史の公園」として、公開されるようになったという。甘草は、甘味料や調味料として、あるいは薬用として使われ、生薬の約7割には甘草が使用されているという。徳川吉宗の時代に、ここで栽培されていた甘草が幕府の採薬使の目にとまり、幕府御用としてその栽培と管理を命じられたという。

 見学料金1人310円を払ってなかにはいる。家のつくりは、新潟のわが実家の家屋とおなじような座敷を主体にした間仕切りで、茅葺(いま銅板)だが、規模は倍以上もある。座敷で甘草入りのお茶と名物の干し柿をふるまわれたうえ、係の年配の女性によるていねいな説明をうけ、そのうえ干し柿のお土産まで頂戴したのには、恐れ入った。広い屋敷には、甘草を乾燥させる大きな小屋や土蔵などの建物が並んでいる。驚いたのは、併設して樋口一葉記念館なるものがあったことである。実は、一葉の両親がこのあたりの出身で、一葉自身はこの地を訪れたことはないが、父母から聞いて作品のなかにこの地を描いているという。展示されていた両親と妹の写真がとくに目にとまった。初めての発見である。

 「甘草屋敷」の見学のあと、駅の反対側、正面のほうへまわり、昼食に蕎麦を食べる。塩辛いだけまずい蕎麦であった。塩山駅を13時46分発の特急カイジに乗り、3時には無事帰宅する。妻の突然の失神というハップニングはあったが、無事帰還を祝って一人祝杯をあげる(妻はきのうのきょうなので禁酒)。                 〆