村田紗耶香『コンビニ人間』(文春文庫)

 多様性を認めない画一化され不寛容な世界では、個性をもった人間らしい人間は生きていけない。大量生産による規格化された商品の世界は、その典型であろう。そういう大量生産商品の流通を末端で担うのがコンビニである。「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」と、そこの店員はすべてマニュアル化されたレールに乗って販売をする。私自身が体験した極端な例だが、80歳を過ぎた私が、コンビニでお酒を買うとレジを担当する若い二十歳くらいの店員が、備え付けの画面を指さして「確認のタッチをしてください」と要求する。そこには、「私は18歳以上です」との表示がある。私は猛烈に腹が立った。80年以上生きてきた人間をとらえて18歳上かどうかを問うとは、いくらなんでも失礼ではないか。もちろん店員に悪意はない、マニュアル通りの言動をしたにすぎない。コンビニ側からすれば、そんな老人が酒を買いに来るとは予想していなかった、ということになるのだろう。マニュアルが悪いのではなく、歳をとりすぎている方が悪いのである。画一化され、マニュアル化された社会の住みづらさは、かくのごとくである。

 第155回芥川賞を受賞したこの作品は、こうした社会に対する痛烈な批判を、逆説的に、すなわち画一化、マニュアル化のなかにしか住みやすさ、生きやすさを見出せない一人の女性を描くことによって世に問うているといってよい。主人公の古谷恵子は、生まれながらに情緒障害をもつ女性でまともな人間関係を築くことが苦手である。こどものころから、そうした自分をその場その場の人間関係に価値判断抜きに同化させることで、覆い隠し、しのいできた。成長してもまともな就職も恋愛もできないが、たまたま採用されたコンビニのアルバイトにはなじみ、18年間続け、ベテラン中のベテランになる。なぜなら、ここではマニュアル通りの言動をしてさえおれば、違和感をもたれずに、排除もされず、安心して過ごすことができる。すなわちコンビニ店員である限り、この社会であたりまえの女性として生きるよう強制されずに済むのである。すなわち、まともな就職もしないで、結婚もせず、子どももいないのはおかしい等々という、社会的圧力から自由でいられるのだ。

 ところが、この女性の前にやはり社会に同化できず、疎外感をもち、画一化された社会に恨みと憎しみを抱く白羽という男性があらわれる。この男性は、コンビニのアルバイトすら務まらず、シェアハウスからも追立を迫られ、恵子のところへ転がり込んでくる。形だけだが恵子がこの男と同居するようになると、コンビニ店の同僚も、妹も恵子に対する態度が一変する。彼女を自分たちと同じ一人の標準化された人間として扱うようになるのである。結婚して家庭をもって子どもを産み育てる普通の女性としてである。これは恵子には耐えがたい。

 画一化しマニュアル化したコンビニにしか安らぎを見出すことのできない奇妙な、それこそおかしな女性をとおして、作者は人間の多様性、個性を主張し、それらを押し殺す大量生産と大量流通を基礎にした、画一化、平均化が支配する今日の社会を痛烈に批判しているということができよう。だからこそ、奇妙奇天烈な女性を描きながら、そこにあたたかい人間味を通底させることができているといえよう。この逆説的発想にこそ、この作者の文学者としての優れた資質が示されているように思う。1979年生まれというまだまだ、若い作家であり、今後の活躍が期待される(2020・2)。