司馬遼太郎『梟の城』(新潮文庫)

 作者の若いころの作品であり、1959年の直木賞受賞作である。いわゆる忍者もので、戦後の忍者ブームの走りになった作品といえよう。作者の作家としての地位を不動のものにした記念すべき作品でもある。しかし、後の一連の歴史小説がそれぞれの時代とそこにおける登場人物の真実に迫ろうとしているのに対して、この作品は文字通りの意味で娯楽小説、大衆読み物といった傾向が強い。ストーリーも場面展開もかなり恣意的であるし、適当にエロティシズムをまぶしているところにも、そうした相貌をうかがうことができよう。そうした娯楽読み物でありながら、そこに描き出された人間像に作者らしい鋭い人間観察や洞察をもみることができ、そこに並々ならぬ才能を認めることができるといえよう。

 舞台は、秀吉が朝鮮出兵をおこなった時代の京都を中心に展開する。伊賀忍者の里は、信長によって残酷な弾圧をうけ、親兄弟を惨殺された忍者たちは各地に離散し、再起の機会をうかがっている。その一人である葛籠重蔵のもとに、かつての師匠である老人、下柘植次郎左衛門が訪ねてくるところから、話は始まる。京都に潜伏している次郎左衛門は、堺の豪商で秀吉の側近でもある茶人、今井宗久から内密に依頼されたあるたくらみへの加担を重蔵に依頼する。そのたくらみとは秀吉暗殺である。伏見城の堅い守りを抜いて侵入し、秀吉を襲うことができるのは、超人的秘術を駆使する忍者以外にいないというわけである。宗久は、信長に取り立てられ、秀吉の側近でもあるが、秀吉は堺の他の商人との関係が深く、宗久は半ば干されたような地位にあり、内々秀吉に恨みをもっている。その背後には徳川家康の影もちらつく。

 一方、治左衛門の弟子には重蔵の他にもうひとり、風間五平という男がいる。次郎左衛門は自分の娘の木猿の婿にこの五平をと考えているが、この男は生涯日陰者で終わる忍者稼業に嫌気がさして、忍者の掟を破り、身元を隠して京都奉行を務める前田家に仕官している。秀吉を狙う重蔵らを捕え、処刑してこそ、出世の道が開ける立場に身を置くのである。五平の裏切りを知った木猿は、五平を切る覚悟で京に赴く。しかし、五平の前に出た木猿は、この男に身をゆだねてしまう。このあたりがいかにも娯楽小説といったつくりになっている。この五平らに加担する甲賀忍者――そのなかには重蔵に恋をする小萩という美しい忍者もいる――もからんで、話は重蔵と五平を軸に、両者の入り組んだ対立、抗争として展開する。

 忍者は、特定の主人に仕えるのではなく、約束される報酬とひきかえに、その都度、引き受けた仕事にすべての力を投入する。成功しても、地位も名もいっさいかかわりなく、失敗すればすべては闇に葬られる。そうした稼業には、夢も希望もない。ただその場その場に賭け城るしかない。そのニヒルな生き方に徹しているのが、重蔵である。重蔵はそうした生き方のむなしさを自覚もしている。このあたりが、無謀な戦争に青春を奪われ、戦後は企業戦士としてただひたすら働き続けるサラリーマンなどの共感を呼び、歓迎されたゆえんかもしれない。重蔵にしても五平にしても、けっして英雄でも理想に生きる人物でもない。そうした人間のあがきと葛藤をつうじて時代をえがいたところに、この作品のユニークさがあるかもしれない。

 さて忍法を駆使して様々な困難と障害を乗り越えて伏見城に忍び込み、秀吉の寝所に侵入した重蔵が、そこで目にした秀吉の実像とは? また、重蔵を追って同じ城内に忍び込む五平を待っていた運命とは? これがこの作品のクライマックスである。大盗賊、石川五右衛門伝説を取り込んだ結末こそ、本作の最大の見どころといえよう。(2019・3)

 

坂井律子『<いのち>とがん』(岩波新書、2019・2)

 著者は2016年、NHKの編成局主幹に就任した直後に膵臓がんが発見され、2年間の壮絶な闘病生活を経て、2018年11月26日に58歳の生涯を終えている。教育、医療、福祉などの番組の制作、ディレクターを務めてきた著者は、2度にわたる大手術に耐え、一時は職場復帰を予定するまでに回復したものの、再再度の転移が発見され、回復不能となる。そんななかで、テレビ局の仕事は人に何か伝えるしごとだ、「だとすれば、職場にもどれなくとも、仕事は別のかたちでしたらどうか?」と、親しい友人に勧められて始めたのが本書の執筆であったという。

「もうあまり時間がないかもしれない」と、「はじめに」に書いたのが2018年2月20日である。巻末の「生きるための言葉を探して――あとがきにかえて」の最後に「言葉の力を得て、病気と向き合えたことを改めて感謝しながら、まださらに生きていきたいと思っている」としるした。2018年の11月4日である。その22日後に亡くなっている。出世前診断についての著書もある坂井さんは、医療現場にも詳しい専門家でもある。すい臓がん患者となって、死と向き合い、大手術とその後遺症、抗がん剤の副作用とたたかいつつおこなう患者の側からのレポートは、あくまでも冷静で、客観的な自己観察と考察でつらぬかれている。それだけに、貴重な記録として深い感動を呼ばずにおかない。新聞で紹介されて本書の刊行を知り、一挙に読み終わった。がんではないが、脊髄の障害で10年ほど前に植物人間になりかけ、死と直面し手術で生き延びた私にとって、本書に書かれている体験や提案はその一つひとつが、共感をおぼえ納得できる。

   それにしても膵臓がんとは恐ろしい病気である。医学の進歩で近年では絶望的ではなくなってきたとはいえ、5年後の生存率は10%である。坂井さんの場合は、膵頭十二指腸切除という、すい臓がんの中もでもっとも難しい手術である。膵頭だけでなく、胃の一部、十二指腸全部、胆嚢全部、胆管一部、所属するリンパ節をごっそり切り取るというもので、8時間に及ぶ手術である。それだけに術後の後遺症が並大抵ではない。食べたものが胃から腸にぬけない、膵液が漏れて血管を溶かしてしまう、胆管炎、肺の収縮である。激しい下痢、脱水症状に悩まされ、そのうえ、抗がん剤の副作用がおそってくる。

 著者によれば「手術はスタートライン」にすぎない。「『勘弁してほしい』と願う日々の連続であった」という。しかし「容赦ないすい臓がんが攻撃を繰りだしてくるたびに、そのまましぼんでしまいたくない、という闘争心、というより人生に対する“欲望”が芽生えていったように思う」という。著者が最後まで貫いたこの姿勢に、敬服するほかない.

 患者として学んだことのなかには、がん治療をふくむ医学の驚異的な進歩が挙げられている。そのなかには、すい臓がん患者のなかで「最強最悪」と恐れられている4剤併用の薬のことなどがある。「最悪」とは副作用の激しさである。そこでは、「無慈悲で冷酷なまでの執拗さで、何度も治療を重ね、患者が耐えうる限界をひろげていかねばならない」「われわれが殺したのは、腫瘍か患者か、そのどちらかだった」という医師の言葉が紹介されている。

 私が一番共感を覚えたのは、「患者の声は届いているか」という章で、患者を襲う恐怖と死への怯えのなかで、患者の「心を支える」仕組みについてのレポートである。がん患者が気楽に足を運んでくつろぎ、相談もできるという「マギーズ東京」という施設が紹介されているが、死と直接対峙しなければならない患者にとって、その心をささえる体制がもっともっと充実させられる必要を痛感させられる。この一冊を残して若くして去った坂井さんの冥福を祈る。(2019・2)

司馬遼太郎『関ケ原』(上中下、新潮文庫)

 関ケ原の戦いは、壇之浦、鳥羽伏見の戦いとともに日本歴史上の三大決戦のひとつといわれる。この決戦に勝ったことで、家康の支配体制が固まり、その後300年近くにわたる徳川幕府の時代がはじまることになる。徳川方の東軍と石田三成方の西軍の合計十数万の軍勢が岐阜県関ヶ原で真正面から対決したのである。本書は、豊臣秀吉の死から一挙に広がる両陣営の対立、抗争から関ケ原の決戦にいたる歴史を、これにかかわる多くの多彩な人物とその動きによって、またそれぞれのエピソードをまじえて実に生き生きと描き出している。やはり一大傑作といってよいであろう。とくに強い印象を受けたことをいくつか記しておこう。

 一つは、なんといっても家康と三成との対比と葛藤である。秀吉の死後、事実上の後継者となっておっとり構えながら、知略を尽くして勢力をひろげるのが家康である。これにたいして、秀吉の懐刀となって朝鮮出兵をとりしきり、そのゆえに惨憺たる結果に終わった無謀な派兵にたいする諸侯の恨みを一手に引き受けることになったのが三成である。卓越した頭脳と豊富な知識、判断力をもち、正邪を明確にその鋭い舌鋒は他を寄せ付けないのだが、その半面、人間的な幅と温かさを欠き、信望がなく、孤立しがちである。秀吉の遺児、秀頼に忠節を尽くす大義のもとに毛利、山之内など西日本の諸大名を結集して、数の上では東軍を圧するのだが、その内部は、面従腹背にとどまらず、東軍の家康陣営に寝返るものが後を絶たない。家康はゆったりかまえながら配下に謀略に長けた本田正信や有能なオルグ黒田長政らをおいて、西軍の内部をかく乱し、実利を餌に三成からの離反を策してやまない。戦そのものではないが、家康と三成のこうした対照的な性格を持つ人間によるそれぞれの勢力拡大をめぐる死闘こそ、この作品の面白さを成している。

 それだけに、関ケ原の決戦にいたる歴史が、あまりにも家康と三成の性格の違い、そこからくる人間的な葛藤へと狭く一面化されすぎるきらいがなくもないように思う。そのため、秀吉から家康へという歴史の大きな流れをつくりだした根本的な動因がぼやけてしまうように、私にはおもわれる。歴史の専門家でないので正確なところ自信はないが、秀吉による二度にわたる朝鮮出兵という無謀な軍事行動、それに象徴される暴政にたいして増幅する諸大名から民、百姓にいたる憤懣と怒りが、豊臣政権のそれ以上の存続を許さなかった、三成からの諸大名の離反の根底にはそうした根本問題があったといえよう。本作にもそのことはいろんなところで触れられてはいるのだが、歴史を貫く太い動軸としては位置づけられてはいない。そこに不満が残る。

 もう一つは、いうまでもなく関ケ原の合戦そのものの見事な描写である。家康は、味方に加わったが、秀吉の腹心であった福島正則の動向に細心の気を配る。戦いは夜明けとともに霧の中ではじまる。最初、優勢なのは西軍だが、陣営で実際に戦っているのは三成の軍と宇喜田秀家の部隊くらいで、西側の主力、山に陣取った毛利や小早川はいつまでたっても動こうとしない。しびれを切らした三成の再三にわたる督促にもかかわらず、主力部隊の将、毛利などは最後まで「弁当をたべている」との理由で応じようとしない。それどころか、肝心のところで、小早川が家康陣営に駆けつけて参戦、これが勝敗の分かれ目になる。そのあたりの手に汗を握る展開や、西軍最後の奮闘をする宇喜田陣営の戦ぶりなど、大いに読みごたえがある。また、三成が再起を期して単独逃亡し、自らの領地で捉えられ、京、・大坂の市中を引き回されたうえ斬首されるくだりなども、実に見事に描かれている。

 最後になるが、家康、三成の対立の背後に、秀吉の正室であった北政所と秀頼の母である淀君の対立という、女のたたかいがあったことである。家康は北政所を支援し、三成は淀と緊密な関係をたもつ。このような形で戦国の歴史に女性をからませていることも、作品を面白くしている一因である。(2019・2)

 

文在寅著『運命 文在寅自伝』(岩波書店)

    著者はいうまでもなくお隣の韓国の現職大統領である。朴槿恵前政権下の圧政に対する民衆の粘り強いたたかい、いわゆるロウソク革命の結果誕生した大統領である。しかし、日本人の多くが、この大統領の経歴も政治信条もまったくと言っていいほど知らないのではなかろうか。実は、この書を読むまで私自身がそうであった。それだけに本書の内容は衝撃的である。

   本書は文在寅の自伝という形をとっているが、その内容の大半は先輩であり、同志であった廬武鉉元大統領(2003~2008)の人物と業績の紹介に充てられている。廬武鉉は、後続の李明博政権による政治的報復を意味する不当な告発、追及によって、最期は投身自殺に追い込まれる(2009年)。しかし、民衆に寄り添うその人柄と事跡は、韓国政治民主化の上でも、当時戦争直前まで悪化していた北朝鮮との関係改善という外交努力でも特筆すべきものがあった。現在も歴代大統領の中で国民の多数から最も高く評価されている人物である。文氏は、この大統領の補佐官としてその政治信条の多くを共有し苦楽をともにしてきた。したがって本書は、廬武鉉をつうじて著者自身をも語っているのである。若干の内容を紹介しるにとどめよう。

    隣の国の現職大統領ということから、どうしても日本の首相、安倍晋三氏と比較したくなる。これほどのいちじるしい対照もめずらしい。まず、安倍氏は日本がおこなった侵略戦争の最高責任者の一人であった岸伸介を祖父にもち、そのことを至上の誇りにしている。これに対して、文氏は廬武鉉とともに極貧の家庭で育ち、ともに人権弁護士として貧しい人々のために献身し、独裁政治にたいして身をもってたたかってきた経歴を持つ。廬武鉉は大学に進学できず独学で弁護士資格をとっている。文は、朝鮮戦争で北から南に避難した離散家庭に生まれ、苦学の末司法試験に合格するが、学生時代に独裁政治とたたかう民主化運動に参加していたため、韓国では通例である判事や検事への就任を拒否され、やむなく弁護士になって廬武鉉と出会っている。民主主義と人権を守るために、催涙弾を浴びながらデモ行進の先頭に立ち、再度にわたって逮捕もされている闘士である。

    安倍氏は、過去の侵略戦争を賛美し、朝鮮や中国、東南アジア諸国への植民地支配や、それらにともなう人権抑圧を正当化してやまないのにたいして、廬武鉉政権(参与政府という)が熱心に取り組んだ仕事の一つに過去事整理作業というのがある。これは、李承晩いらい朴正熙などにいたる反共独裁政権のもとでおこなわれた数々のでっち上げ事件や大量殺人、拷問などの人権抑圧を洗い出して、真相を究明し犠牲になった人々を救済し名誉を回復する仕事である。同政権が、悪名高い国家保安法の廃止を目指しながら実現できなかったことを、著者は痛恨事の一つとしてあげている。

   安倍氏北朝鮮の脅威を口実に軍拡や戦争法を強行し、力による対決を叫ぶのに対して、廬武鉉政権は、対話による事態の打開に力をつくした。当時、アメリカのブッシュ政権北朝鮮に対して武力の行使も辞さない強硬姿勢で、一つ間違えば戦争というきわどい状況にあった。廬武鉉政権は、一貫して平和的解決を主唱し、ついに6ケ国協議、南北首脳会談を実現する。38度線に引いた黄色い線を廬武鉉大統領が歩いて超える情景の描写は感動的である。文氏は、廬の遺志を継ぐ大統領として北朝鮮との対話による交渉、非核化の実現にむけて真摯な努力を続けている。

   韓国は日本の植民地支配からやっと抜け出したとおもったら、朝鮮戦争による民族分断、長く続いた独裁政権による人権抑圧との苦難に満ちた経験を重ねてきた。そのなかで、人々はねばり強い民主化運動を草の根からたたかいぬいた。そのたたかいを担い、たたかいの中から生まれたのが、廬武鉉の参与政府であり、現在の文在寅大統領である。激動の韓国現代史をたたかった側から凝縮して示してくれるのが本書であるといえよう。文在寅の韓国に私たちはもっと目を向けなければならない。(2019・2)

 ((((ここに脚注を書きます))))

松本清張『像の白い脚』(光文社文庫)

 第二次大戦後間もない1960年代のラオスを舞台にしたミステリーである。フランスにつづく日本の植民地支配からようやく抜け出したインドシナ半島は、アメリカの介入とこれに反対する共産勢力との間での内戦状態が続いて混とんとした政治状況にあった。旧フランス領のラオスは、タイ、ベトナムと国境を接し、1954年のジュネーブ協定で中立を保障されてはいたが、実際には政府はアメリカの軍需援助と軍事顧問団に依存していた。しかし、国土の大半はパテトラオと呼ばれる共産主義を掲げる勢力の軍事支配下にあった。作品の舞台となる首都ビエンチャンはそんななかで、文字通り混乱と退廃に覆われていた。

 友人の石田がメコン川支流の河岸で水死体となって発見された事件の探索を兼ねて、主人公の谷口がビエンチャンを訪れたのは、60年代半ばであった。日本人女性と思しき平尾正子が経営する書店の店主、山本を通訳兼ガイドに雇って市内を見学するが、この山本にはいまひとつ信用できない何かがある。当時小さな田舎町に過ぎない市内には、売春窟や麻薬の吸飲所などもあちこちにあった。援助国のアメリカの軍関係者や偽装したCIA要員も多く、ラオス政府軍高官はアメリカの援助物資の横流しにとどまらず、北部メオ族の栽培する阿片の取引で巨利を得ている。そんなことにも次第に通じるようになっていく谷口は、フランス人の女性記者でアル中のシモーヌ・ポンムレーと知り合いになる。この女性も得体のしれない人物である。ラオスには、日本の建設企業も援助の名目で入っていて、日本人も数は多くないが滞在している。

 そんな状況の中で、ビエンチャンに向かう飛行機で隣の席にいたオーストラリア人の男性が、谷口が滞在しているホテルの石田が泊まっていた部屋で変死体となって発見される。つづいて、山本もビエンチャンから少し離れた農村の道路わきで殺害される。いったいなにが起こっているのか、ビエンチャン政府のご粗末な警察機構では、捜査がすすまず何一つわからない。一人で探索する谷口は、どうやら事件の背後に阿片取引がからんでいるらしいことを突き止めるに至る。ビエンチャン滞在の長いシモーヌがなにか知っているようだが、この女性の口は堅い。書店だけでなくビエンチャン随一の高級レストランを経営する平尾正子もシモーヌと親しく、米

軍関係者ともつながりがありなにやらあやしそうだ。

 こうしてたてつづく殺人事件をめぐって、いろんな人物が登場し謎解きのてがかりとなる網がはられていく。谷口の推理では、石田殺害の原因は、軍のからむ阿片取引の現場に石田が首を突っ込みだしたためのようだ。では山本は? そして謎のオーストラリア人は? なぞは解明されないまま、予想もしなかった事件で谷口の捜査は突然中断され、あっけなく幕を閉じる。推理小説としては尻切れトンボで、なんとも後味が悪い。事件の解明の推理もいまいち緻密さに欠ける印象をまぬかれない。

 私見によれば、作者の主な意図はこの作品を推理小説として完成させることではなく、当時日本にはほとんど知られていなかったラオスの複雑で混とんとした政治社会状況や自然、風物を、ミステリーの形態をとって紀行文として紹介することにあったといえよう。推理を途中で打ち切ったのは、そのことを意味している。作者は、1965年、北ベトナム政府の招待でプノンペンを経由しビエンチャン空港を経てハノイに向かうが、天候不良のためビエンチャンで一週間ほど足止めされた。その時精力的に市内を取材したという。その成果がこの作品である。(2019・2)

 

司馬遼太郎『竜馬がゆく』(文春文庫全8冊)

 作者の代表作中の代表作であり、おそらくもっとも広く読まれているのではなかろうか。あまりにも有名なのと、『坂の上の雲』で維新後の明治政権による朝鮮侵略、植民地化に目をつむって日露戦争とそれを契機とする軍国主義大国化を一方的に美化したいわゆる司馬史観への反発から、これまで目を通さずに来た。たまたま幕末の長岡藩の家老、河井継之助を描いた『峠』を読んだのを機に、司馬への認識を新たにしてこの作品に挑戦することにし、年末から読み進んでこのほど読了した。竜馬という風雲児を通して幕末日本の激動の歴史の全体像を描き出した一大傑作である、というのがなによりの感想である。この作品については、これまですでに語りつくされてきているとおもうので、いくつか心に残った事を書きとめるにとどめたい。

 一つは、幕末から維新にかけて活躍した多くの志士のなかで竜馬という人物が頭一つ抜きんでていたということ、そして竜馬のそんな資質がどこから生まれたのかということを納得させられたということである。3点あげておく。第一に、薩摩の西郷や、長州の桂、高杉にしろ、土佐の他の勤王志士にせよ、まして島津、毛利、山之内などの藩主はもとより、それぞれ多かれ少なかれ自分の藩にわくにとらわれていたのにたいして、竜馬は幕府や藩を超越し、欧米列強の進出、圧力からどう日本を守り、日本をどう生き延びさせるかという立場に徹し、そこに力を集中したことである。第二に、有名な「船中八策」にみるように、大政奉還をとなえただけでなく、そのあとどのような政権をつくるかの明確なビジョンを持っていたことである。そこでは、上下議院の設置とそれによる民主的な政権運営をも展望していた。竜馬のこの見地は、後の自由民権運動にもつながっていく。これも他の志士には見られなかった点である。第三に、勤王にせよ佐幕にせよ幕末の志士たちの活躍が、藩をバックにするか、あるいは脱藩した志士の場合多かれ少なかれ一匹狼の獅子奮迅だったのにたいして、竜馬は土佐藩を脱藩して組織的なバックボーンを欠くなかで、亀山社中海援隊という株式会社組織をつくり、海外貿易事業と海軍の建設によって経済的軍事的実力を築いてその力によって自らの思想、主張を推進するという、当時としては他の追随を許さない傑出した発想の持ち主だったことである。

 ではなぜ竜馬はそのような独特の才にめぐまれたのか? これは、土俗の長曾我部一族のうえに家康によって封じられた山之内家が君臨した土佐藩では、竜馬の家は長曾我部の系譜に属する郷士として、山之内配下の上士とは画然と差別され、この藩にいるかぎりいかなる出世もありえなかったこと、そのため、竜馬は藩にはいかなる未練も執着もなく、それどころか藩を離れてこそみずからの才能を生かす道が開ける立場にあったという事情があった。そのうえ、郷士とはいえ武士である竜馬の家は、どういういわれか大きな商家の分家であって、他の武士と違って商売や実利と直接接点をもっていた。竜馬が他の志士たちが思いもよらぬ通商や海運、貿易に特別な関心をいだいた背景には、こうし家庭の特殊性もあったのである。同時に見過ごせないのは、竜馬は幕吏でありながら国際的な見識と将来展をもっていた勝海舟に師事したり、横井小楠など優れた知識人に学び、当時としては最良の見識を身に着けていたことである。それを可能にした竜馬の人に愛される性格があったことも忘れてはならない。本作では、これらのことが丹念な史料収集にもとづいて生き生きと説得的に描き出されている。

 次に記しておきたいのは、竜馬をとりまく多くの人々の人間像が、実にリアルに浮き彫りにされていることである。なかでも幕府に将来のないことを見通しながら、幕府の官僚として海軍の創設などにとりくみ外圧とたたかう勝海舟は、傑出した人物として魅力的である。また、竜馬とともに暗殺される中岡慎太郎や、後の陸奥宗光らの描写も、それぞれなるほどと感心させられる。

 もう一つ、この作品で見落とせないのは、竜馬をとりまく女性たちがそれぞれ独特の魅力をもっていることである。5尺8寸もの大女で剣道の達人、母親がわりになって竜馬を育て教育した姉の乙女、江戸の千葉道場の娘で竜馬とともに剣道の道に励み、のちに竜馬の許嫁を自称したさな子、京都伏見の船宿寺田屋の女将で、姉御のように竜馬を愛しんだお登勢、そして、竜馬が刺客に襲われたさい入浴中の全裸の姿で危急を知らせた、後の妻おりょうなどである。いずれも、当時の女性にはめずらしく気っぷのよい男勝りの人物ばかりである。竜馬好みの女性たちだが、やはり激動の時代を生きた女性にみられる一つの共通タイプといえよう。これらの女性たちの存在が、この作品の欠かせない魅力の一つになっているのは間違いない。(2019・1)

司馬遼太郎『峠』(上中下、新潮文庫)

 司馬遼太郎の作品はこれまで『坂の上の雲』くらいしか読んで来なかった。歴史小説の大家であるから他の作品にも挑戦してみようとかねがね思っていたのだが果たさずに来た。妻に勧められて挑戦する気になったのがこの作品である。戊辰戦争とならんで維新をめぐる決戦場となった北越戦争の中心地である越後長岡藩の家老、河井継之助という人物を描いている。新潟出身の私たち夫婦にとって長岡は格別に親しみのある地でもある。

 自分の郷里でありながら長岡藩の歴史についても、河井継之助なる人物についても、実はまったく知らなかった。明治になってから渡米して『武士の娘』という著作を書いてアメリカで有名になった杉本鉞子について、長岡藩の家老の娘であったことをふくめて調べたことがあったくらいであった。それだけに、北越戦争の全容と会津藩の側に立って薩長を中心とする官軍とたたかった長岡藩を率いた河井継之助について、知的衝撃とともに学ぶことが多かった。それが、本書を読んだ最大の感想である。

 継之助は若くしてその異才で突出していただけでなく、陽明学を学んで知行一致を実践し、幕末の苦難の時代に一身で藩を背負って立つ決意のもとに江戸に出て諸国の学者を歴訪して学び見聞を広げる。欧米の圧力をまえに国の独立さえ危うくなるなかで、幕藩体制は揺らぎ、薩長を中心とする尊王攘夷派と幕府の対立が決定的な局面をむかえる。継之助は、武士の世が終わろうとしていることを見抜き、朝廷のもとでの天下の統一、欧米の知識や技術の導入による開化策以外に日本の生きる道がないことを洞察する。

 にもかかわらず継之助は、長岡藩の家老、やがて上席家老=事実上の首相に任命される。そこで、侍として節を貫き、譜代大名の藩主に命をささげる道を選ぶ。継之助がとったのは、薩長に屈するのでなく、かといって会津と運命を共にするのでもなく、両者に対して距離をとりつつ、藩の軍備を洋式化・強大化することによって発言権を保持し、中立を貫きとおして戦火を避ける、という道である。いわば、武装中立で小国の独立を守るスイスのような道である。その選択肢によってのみ、7万石という小藩が生きのびることができる、というのが河井の判断であった。その戦略が失敗した場合、藩主の父子を海外、フランスへ亡命させる手はずまで、継之助はととのえていた。

 北越討伐に赴く官軍の総司令官は山県狂介(有朋)である。官軍は、薩長軍を主力に、近畿、中国から越前、松本、高田などの諸藩の軍を結集して、越後の高田に総結集する。そして海岸の柏崎、山道の栃尾の二手にわかれて長岡に大挙して進軍する。継之助は、戦をさけるため決死の覚悟で官軍総督公卿への嘆願書を持参して、官軍陣地へ赴く。嘆願は官軍の現地指揮官によってにべもなく拒絶される。ひきかえす継之助は、会津と同盟して藩の総力をあげて官軍を迎え撃つための総指揮をとる。そして、激戦のなかで命を落とす。

 河井継之助の苦闘とこの壮絶な戦いをつうじて、武士の道に生きるさむらいのさむらいたるゆえんが、いかんなく発揮される。そこには、さむらいの醇化され、美化された姿が感動的に描き出されている。継之助という特異な人物は読者の共感を呼ばずにおかない。

 朝廷をかついでいるとはいえ薩長などの卑俗なやからに頭をさげるわけにはいかない、かといって会津に組しても先はない、藩の家老としての責任をどうはたすか?苦慮の末の選択だった。しかし、結果として藩は取り潰され、城下は灰燼に帰した。そればかりか、継之介が強行した藩の軍備強化は、農民に耐えがたい負担を強要したであろう。作者の筆はそういう側面にはおよんでいない。そこには、『坂の上の雲』で日露戦争を描きながら日本による朝鮮の植民地化にはいっさい触れなかったのと同じ論理が働いていないだろうか?(2018・12)