ギュスタヴ・フローベール『感情教育』(生島遼一訳、岩波文庫上下)

 ボヴァリー夫人』『サラムボー』につづいて作者が1864年から5年がかりで書き上げた代表作の一つである。舞台は、1848年の2月革命をはさんで、ルイ・フィリップの7月王政の時代から共和制へ、そしてルイ・ボナパルトのクーデタによってふたたび独裁政治から王政へと転換するフランス史上もっともはげしく揺り動いた時代のパリである。

    主人公の青年フレデリックの人妻、アルニー夫人への恋物語を中心とする作品なのだが、なによりも注目されるのは、この騒然とした時代とそこに生きる青年たちの生きざまがリアルに生き生きと描き出されていることである。共和主義者、社会主義者アナーキスト、保守派、王党派が入り乱れ、あらゆる会合で激論が交わされ、共和派の政治宴会がひらかれ、示威行進はやがてバリゲードにかわり、軍隊の発砲と悲鳴、街路を死体が生めるといった騒状況があまり脈絡もなく、しかし克明につづられていく。 

   1840年代のフランスという一番興味深い時代を、この作品によって目に浮かぶように知ることができる、ここに得難い魅力があるといえよう。

フレデリックは、最初は法律を学ぶ学生だが詩や文学に興味を抱く多感青年として登場する。政治亭な立場はあいまいである。これと対照的なのが同郷の親友であるデローリエである。こちらはまずしい出身で共和派、弁護士となって政界での立身出世をめざす理知的な青年である。この二人を中心に、革命に翻弄されながら夢を追う多彩な青年たちが活躍する。理想主義者で社会主義者セネカル、民衆的感情の代表者のデュサルディエ、出世主義者のマルティノンなどなどである。

    フレデリックは、同じ客船で出会った美しく清楚なアルニー夫人に一目ぼれ、画商を営むアルニー氏に接近し、アルニー家に出入りするようになり、夫人に近づく機会を得るたびに、熱い思いを募らせていく。やがて二人だけの空間と時間を持つ機会に恵まれ、相思相愛の関係になるが、あくまで二人の関係はプラトニックな域をでない。その一方で、フレデリックはアルニー夫人への思いがままならないこともあって、男関係の多々あった女優のロゼッタと関係をもつようになり、子どもまで生まれる。そのうえ、大ブルジョアのダンブールと知り合いになり、社交界の花形の夫人に接近する。やがて、ダンブール夫人と恋仲になり、ダンブールの病死を機に、全遺産を相続するはずの夫人との結婚を決意する。ロゼッタ生活も清算できず、不自然な二重生活をしいられるが、やがて両方とも破綻をきたす。

  革命的情勢のなかで、自堕落といえばそれまでだが、そうした破廉恥なせいかつのなかで、アルニー夫人への純粋な愛をひたすら維持し、恋焦がれつづけるところに、この青年の憎めない純真さがある。革命政権の役人に就任するデローリエの方は、やがて48年の6月事件を機に変動勢力の攻勢によって情勢が反転数するなかで、せっかく獲得した地位もうしなっていく。

 それから20年ほどを経て、アルヌーが死去したあと、夫人がフレデリックを訪ねてくる。二人は久しぶりにお互いの愛を確かめ合うが、ここでも何事もなく、アルニー夫人は白くなった自分の髪をひと房切り取ってフレデリックに渡し、もう二度と訪れることはないと告げて去っていく。

 やがてフレデリックとデローリエは再会する。そして、恋愛も政権も夢がついえた過去を振り返り、語り合う。デローリエはいう。「僕は理屈が多すぎ、君は感情が多すぎたのだ」と。そして「あの頃が一番良かったな」と二人の見解は一致する。さて、この作品を通して作者は何を語りたかったのだろうか? タイトルの「感情教育」とともに、謎といわなければならない。(2020・2)

 

 

 

 

 

 

 

ギュスターヴ・フローべーール『ボヴァリー夫人』(芳川泰久訳、新潮文庫)

 だれにとっても、一度はと思いながらなかなか目を通す機会がなかった名作がある。フローベールの『ボヴァリー夫人』が、わたしにとってそうした作品の一つであった。書店でもよく目にするのだが、なんとなく敬遠してこんにちにいたっていた。さきごろ、同じ作家の『サラムボー』という作品に目を通したのを機会に、思い切って読んでみることにした。1857年に出版されたこの作品は、北フランスのルーアンからほど遠くない田舎を舞台に、医師のシャルル・ボヴァリーのもとに嫁いだエンマという女性の奔放な生き方とその破局を描いている。作者の本格的な作品としてははじめてのものであったが、公序良俗に反するとの理由で告訴され、裁判沙汰になったこともあって、大反響を呼んで、フローベールの作家としての地位を確たるものにした作品である。

 エンマは農家の出身だが、修道院に付属する寄宿学校での同世代の少女たちとの交流や読書などをつうじて、多感で夢多く向上心とロマンチックな志向をもつ魅力的な女性として成長した。パリの生活や貴族の社交会にあこがれ、文学や詩、音楽などにもつよい興味と関心をいだく、才能にも恵まれた個性豊かな人間である。このエンマが嫁いだシャルルは、真面目一方の田舎医者であり、毎日深夜まで往診にかけまわるものの、これといった才能も趣味もなく凡庸で、平凡、退屈な男である。妻を心から愛しているものの、その心にひそむ願望や趣向、あるいは虚栄にはまったく無関心である。

 こうしたシャルルとの結婚生活は、エンマにとって退屈で単調、面白くなく、次第にうんざりし、嫌悪すべきものにかわっていく。たまたま招かれて近くに住む貴族の夜会に出席し、その優雅であでやかな雰囲気に触れ、夢のような一夜を過ごす。そのような体験も、エンマの日常生活の単調さ、退屈、無意味さに拍車をかけることになる。このあたりの、心理描写はリアルで鮮やか、お見事というほかない。

そんなある日、エンマは近くのレストランで法律事務所の助手をしている青年、レオンに会う。知識もあり、才覚もあるレオンにエンマはたちまち夢中になり、二人の仲はひそやかに緊密なものになっていく。しかし、二人の関係をつづけることに危険を察知したレオンは、突然彼女のもとを去る。

 再び単調で孤独な日常にもどったエンマは、こんどは、頭もよく女性関係も盛んな34歳の世慣れた男性、ロドルフに熱を上げるようになる。ロドルフは、半ば遊びの気持ちも持ちながら、二人は次第に深みにはまっていく。やがて、もはや夫との退屈な生活に耐えがたくなったエンマは、ロドルフに駆け落ちをもちかけ、決行を迫る。逃避行に出発する約束の日、ロドルフは現れず、姿をくらましてしまう。狂乱状態になって体調も崩すエンマを、シャルルは神経症という診断をくだして見守る。

 ようやく健康を回復したエンマのもとに、再びレオンが姿をあらわし、二人の関係は前にもまして深いものになっていく。しかし、エンマの厚情にレオンはへきえきしだし、エンマもまたそうしたレオンに物足りなさを感じるようになり、二人の間に微妙なみぞがひろがってゆく。その一方、エンマは、出入りの商人の口車にのせられて、恋人への貢物をはじめ多大な浪費を重ね、夫からまかされている家計に大赤字をつくり、借金の金利もかさみ、破産状態に追い込まれていく。そしてついに、すべての動産さしおさえの通知が舞い込むに至る。絶体絶命のエンマは、あらゆるつてを頼って金策に奔走し、最後は、かつての恋人ロドルフ、そしてレオンに泣きつくが、冷たく突き放される。追い詰められたエンマにとって、最後にできるのは、自らの命を絶つことだけである。親しくしていた薬屋から手に入れたヒ素をあおるエンマは、シャルルが泣きくずれるなか短い生涯を終える。エンマ破局の描写も実に迫力があり、読む者の心に迫る。自立しようとする女性に不倫という道しかなかったのか、エンマの破局はこの時代が直面した新しい問題を提起しているのではないだろうか。(2020・1)

 

 

ギュスターヴ・フローベール『サラムボー』(中條屋進訳、岩波文庫)

 フローベールといえば、知っているのは『ボヴァリー夫人』『感情教育』くらいで、『サラムボー』などという作品の存在すら聞いたことがなかった。まったくお恥ずかしい次第である。昨年末、たまたま書店で目にして、こういう作品が存在し、訳本が初めて出版されたことを知って、さっそく購入した。これまで知っているフローベールとは全く違う古代カルダゴを舞台とする歴史小説である。紀元前3世紀、フェニキア人がつくった通商国家・カルタゴとローマの間で闘われた3次にわたるポエニ戦争、その第一次ポエニ戦争のあとに傭兵の反乱がおこり、これとカルタゴ軍が戦ったのが、いわゆる傭兵戦争(別名、アフリカ<リビア>戦争、前241~238年)である。

 フローベールがとりあげたのは、ポエニ戦争のなかでいえば、いわば些末な傭兵の反乱とその鎮圧事件である。双方の殺戮があまりの残虐をきわめたことで後世に伝えられたという。作者はなぜこの事件に目を付けたのか、『ボヴァリー夫人』につづいて一転して書いたのがこの作品だから、驚きである。ずいぶん史料をあさり、読み込んだようだが、ローマに滅ぼされた紀元前の都市国家について、そのリアルな実像を伝える生の史料はほとんど存在しない。にもかかわらず、この都市国家の宮殿や神官、宗教から街の様子、人々の暮らし、さらに戦争のそれぞれの場面が克明に描き出されているのだから、その作家的想像力に驚きを禁じ得ない。ただし、そのことが史実の描き方をめぐっていろいろ物議をかもし、論争の種となってきたようだ。

 表題になっているサラムボーとは、カルタゴの頭領で優れた軍事指揮官であるハミルカムの娘で巫女、絶世の美女でもある。話は、ローマに勝利したカルタゴの傭兵たちが、戦争での功績にもかかわらず、給与の支払い遅延など処遇が悪いことを不満として反乱を起こす。その首謀者となるのが傭兵隊長のマト―であり、その副官となる元奴隷のスペンディウスである。ハルミカムがローマとの戦役から帰還していなかったこともあり、反乱軍は当初はカルタゴに不満を持つ周辺部族などを味方につけて、カルタゴを包囲し優勢であった。マト―はスペンディウスとともに、ひそかにカルタゴ市内にもぐりこみ、宮殿に潜入してサラムボーに会いひそかに恋心を抱くとともに、その神殿に大切に保管されている聖衣・ザインフを盗み出す。ザインフはカルタゴを守護する神のシンボルであり、これを奪われることはカルタゴの人々にとっては敗北と滅亡を意味する。事実、城壁を包囲され、兵糧攻めにあうカルタゴは、飢えと疫病に見舞われ、陥落寸前にいたる。

   そこへ名将、ハミルカムが軍勢をひきつれて帰還し、戦いの形勢はわからなくなる。サラムボーは、みずからが仕える神官からの勧めで、ザイフンをとりもどすために単身、敵軍陣地におもむきマト―に面会を求める。そしてテントの中でマト―とちぎり、ザインフを奪ってカルタゴに帰る。一方、ハミルカンは同盟国となったヌミディアの若き王・ナルハヴァスに勝利の暁には娘を娶らせると約束する。戦いの形勢は次第にカルタゴ側優位に傾き、マト―も力尽きて捕らえられる。そして、カルタゴ市内を引き回され、市民たちの無残な虐待にさらされたうえ、サラムボーの目の前で惨殺される。

    ストーリーそのものはいたって単純で、ページの大半はハミルカムとマト―の両軍の戦闘場面で埋め尽くされている。それも、この上なく残虐な描写がこれでもかとつづくのである。例えば、「死体と瀕死の者の上に折り重なって倒れたけが人が山をなし、生きた脚がそれを踏みつけて歩く。外に飛び出た内臓、飛び散った脳みそ、そして血溜まり、そのなかで焼け焦げた胴体が黒い染みをなしている。死体の山の中から胸や脚が上にまっすぐ――――」といった具合である。サディスティックというほかない。何を意図してこれほど残虐な戦闘描写にこだわったのか? そこに、作者のどんな怨念がこめられているのかは、読者の推測にゆだねられている。(2020・1)

新春の甲斐大和・嵯峨塩館へ

 正月のうちにどこか温泉へ一泊旅行でもと、例によって次女の提案で、中央線甲斐大和駅から大菩薩峠にむかう山道を奥深く入ったところにある一軒宿、嵯峨塩館で一泊ということになった。嵯峨塩館というのは、武田信玄隠し湯だったところにあり、明治35年の開業という。宿のほかに見物するところなどはなにもないが、たまには山奥の一軒宿でゆっくり温泉に浸かって過ごすのも悪くはないだろうというのが、ここを選んだ理由である。

 なつかしい甲斐大和へ 

 新年最初の日曜日となる5日午前10時過ぎに町田の自宅を出て、横浜線で八王子へ、そこでお弁当を買って、中央線の電車で高尾まで行って各駅停車の列車にのりかえる。しばらくぶりに窓外の冬景色を眺めながら、藤野、相模湖、猿橋、大月、初狩をへて、午後1時少し前に甲斐大和(旧名、初鹿野)駅ににつく。ここは、私が元気なころ大菩薩峠へ連なる甲州アルプスの南端に位置する大蔵高丸(1781メートル)、ハマイバ丸(1752)、大谷ヶ丸(1644)という山々の縦走にたびたび出かけたさいの降車駅である。ここから約40分歩くと景徳院という由緒あるお寺がある。戦国の世、徳川家康に敗れて敗走した武田勝頼が自害した地にその死を悼んで家康が建立したという寺である。古い山門があって、これが当時を偲ばせる。高山植物の多いなだらかな縦走路を歩き終えてくだり、この寺で一息ついて帰ってくるのが定番であった。宿から迎えの車が来て、このお寺の脇を通って山道に入り、上日川峠、上日川湖(大菩薩湖)にむかって山道を約20分もはいると、日川の清流のほとりにたった一軒だけ建っている嵯峨塩館に着く。古い民家のような和風のひなびた宿である。

 玄関を入ると、女将らしき人が迎えてくれた。田舎旅館らしいたたずまいのフロントですぐ目に入るのは、後ろ足でたつヒグマの剥製である。かかえるような巨木の木肌を磨いた置物もある。奥には囲炉裏が仕切られており、自在鉤に鉄鍋がかかっている。通されたのは沙参という純和風の部屋で、堀炬燵に座布団がしつらえられている。窓からは、日川のせせらぎを見下ろせる。川岸の山肌には、一昨日降った雪がところどころに残っていて、いかにも冬らしい寒々とした趣をかもしだしている。

 少し休んでまだ夕食には間があるので宿の周りの遊歩道を散歩する。道は川に沿って登っており、木道などを敷いてはあるところもあるが、足場が悪く、歩きにくい。ここで妻がバランスを崩して尻もちをつき、腰をしたたか打ったが、幸い骨などに異常はないようだ。部屋に戻って、風呂に入る。露天風呂もある浴場には、先客が一人いただけでとても静かで落ち着いて湯に浸れる。内湯で身体を十分に温めたうえで、思い切って寒い戸外の露天風呂におもむく。雪景色のなか風流このうえない。

 

 夕食時の突発事故

  夕食は、一階にある和風の部屋でテーブルに椅子がけである。ビールと甲州ワインで乾杯。料理は、山菜などを主体にしたオードブルに始まり、鴨鍋、つぐみの焼きものと次々にくりだしてきて、たちまち腹いっぱいになる。ところがここで大ハップニング。黙々と食べていた妻の様子が突然おかしくなる。隣に座る娘が気付き、呼びかけたり、肩をゆすったりするが、反応がないのである。私も声を荒げてよびかけ、ほほをたたいたりするが、びくともしない。要するに、何が原因かわからないが、突如、意識不明に陥ってしまったのだ。アルコールのせいかとも一瞬思いめぐらすが、乾杯程度で酔うほどの量はのんでいない。真理が脈をとると、ほとんど聞こえないという。まわりで食事中の客や女将も気づいて駆けつけ、一時は大騒ぎになる。からだを横にして、頭に冷たいタオルをのせたり、足の下に物を入れるなどするが、反応がない。とっさに私の頭をよぎったのは、このままあの世に行ってしまうのではないか、という想念である。人間の命とははなんとかないものか、永遠の別れはこんなふうに唐突にやってくるのかと、そんな思いも瞬時にひらめく。そうこうするうちに、なんとか意識がもどる兆しがうかがえるようになる。顔の表情にも多少の変化がみられる。しばらくそのまま寝かせておくと、やがて何とか起き上がろうとするようになる。娘が支えて部屋に連れ帰り、ベッドに寝かせる。痛みとか苦しさはないようだし、嘔吐などもない。安静にしてそのまま寝かせておけば、回復するようなので、一安心する。

 しかし、とにかく原因不明であるから不安である。その夜は、時々目をさまし、そのたびにちゃんと呼吸しているかどうか確かめ、何度も確認した。翌朝は、元に戻ったようなのでひとまず安心だが、虚血性の脳障害などもありうるので、一度精密検査を要する。

 

塩山の甘草屋敷へ 

 6日朝6時に起床、まず朝風呂に浸かる。とても寒いが、露天風呂に入って星空をながめる。まだ薄闇のなか周囲の林の木々の根元にひろがる残雪がほの白く輝く。浴場には私のほかは誰一人いない。ひげも剃ってさっぱりした気分で、日課となっている散歩に出かける。そとは、厳寒で、あとで聞くと零下8度であったという。宿の前の道なりにのぼっていく。道路脇にはうっすら雪が残り、凍結しているから滑りやすい。用心しながら慎重に歩いていくと、周囲が次第に明るくなり、やがて富士山が木陰からのぞめるようになる。その姿をカメラに収めて早々にひきあげる。

 朝食後、さてきょうはどこへ行こうか、という話になる。このまままっすぐ帰ると、昼頃には自宅に着いてしまう。かといってこの周辺にはなにもない。次女の提案で甲斐大和の2駅先の塩山駅すぐ近くに「甘草屋敷」というのがあって、重要文化財にも指定されているがどうか、ということになる。さほど食指も動かないが、かといって反対する理由もないので、同意する。駅までは、宿の車でおくってもらい、塩山へむかう。塩山は、乾徳山や西沢渓谷へむかう下車駅で、かつてはたびたび下車したところだが、「甘草屋敷」というのがあるとは知らなかった。塩山駅北口に降りると武田信玄の大きな胸像があり、車道を渡るとすぐそこに「甘草屋敷」がある。

 「甘草屋敷」とは、江戸時代に薬用植物の甘草を栽培して幕府におさめていた高野家の居住宅で、19世紀初めに建てられた純和風建築である。甲州を代表する古民家として、1953年に重要文化財に指定されている。旧所有者から建物と敷地が市へ寄贈されたのを受けて、平成13年、建造物と屋敷が一体となって「薬草の花咲く歴史の公園」として、公開されるようになったという。甘草は、甘味料や調味料として、あるいは薬用として使われ、生薬の約7割には甘草が使用されているという。徳川吉宗の時代に、ここで栽培されていた甘草が幕府の採薬使の目にとまり、幕府御用としてその栽培と管理を命じられたという。

 見学料金1人310円を払ってなかにはいる。家のつくりは、新潟のわが実家の家屋とおなじような座敷を主体にした間仕切りで、茅葺(いま銅板)だが、規模は倍以上もある。座敷で甘草入りのお茶と名物の干し柿をふるまわれたうえ、係の年配の女性によるていねいな説明をうけ、そのうえ干し柿のお土産まで頂戴したのには、恐れ入った。広い屋敷には、甘草を乾燥させる大きな小屋や土蔵などの建物が並んでいる。驚いたのは、併設して樋口一葉記念館なるものがあったことである。実は、一葉の両親がこのあたりの出身で、一葉自身はこの地を訪れたことはないが、父母から聞いて作品のなかにこの地を描いているという。展示されていた両親と妹の写真がとくに目にとまった。初めての発見である。

 「甘草屋敷」の見学のあと、駅の反対側、正面のほうへまわり、昼食に蕎麦を食べる。塩辛いだけまずい蕎麦であった。塩山駅を13時46分発の特急カイジに乗り、3時には無事帰宅する。妻の突然の失神というハップニングはあったが、無事帰還を祝って一人祝杯をあげる(妻はきのうのきょうなので禁酒)。                 〆

川越宗一『熱源』(文芸春秋社、2019・8)

 作者は1978年生まれというから、40歳そこそこである。2018年に『天地に燦あり』という作品で第25回松本清張賞を受賞した新人である。本作は、北海道の北に浮かぶ極寒の島、樺太(サハリン)を舞台に19世紀の後半から第二次世界大戦の終わりまで、時代にほんろうされながらひたむきに生きるアイヌの人々を描いた力作である。そこでは、ロシアに祖国を奪われ母国語を話すことすら禁じられ、反逆罪でサハリンに流刑されるリトアニア出身のポーランド人とアイヌやニヴクン(ギリヤーク)との交流にも大きなスペースが割かれ、ヨーロッパとアジアとをむすぶ壮大なスケールの物語が展開される。半世紀の時代、明治維新日露戦争ロシア革命第一次世界大戦第二次世界大戦という波乱と激動の歴史と、北海道、サハリン、ウラジオストックなど極東にとどまらず、ロシア、ポーランド、フランスへと舞台が広がるこの作品のスケールは、それだけでも驚嘆に値する。まだ粗削りなところはあるが、将来に期待が持てる新人作家の登場といえよう。

 話は冒頭、第二次世界大戦でドイツに勝利したソ連軍の女性軍曹が対日戦で極東に向かうところから始まる。しかし、話題は一転して、サハリンから移住したアイヌのヤヨマネクフ、シシラトカ、アイヌ人の母と日本人の父を持つ千徳太郎治3人の北海道・対雁での生活に移る。森林も漁場も日本人に奪われ、劣等民族視と差別に苦しみ、日本政府がすすめる皇民化に自分たちのアイデンティティーの危機を感じておびえる。そして、一大決心をしてそれぞれ生まれ故郷のサハリンへ戻り、そこに生きる道をさぐる。そこに現れるのが、祖国を奪われたリトアニア出身のポ-ランド人流刑囚、プロニスワフ・ビウスツキである。ペテルブルグ大学の学生だった彼は、反逆罪でサハリンへ送られ生きる希望を失っていたが、ギリヤークやアイヌの言語、習俗などに関心を深め、住民たちとの交流を通じて民俗学者として実績を上げてゆく。プロニスワフには、独立運動にたずさわる武闘派の弟がおり、大学の先輩には人民の意志派で皇帝暗殺罪に問われて死刑になったレーニンの兄、ウリヤノフもいる。

 大半が識字能力もない住民がロシア人に差別され不利益を強いられるのを見て、同じく被抑圧民族出身のプロニスワフは、サハリンでの学校建設を思いつく。もともと教師志望だった千徳太郎治やその才能に目にとめたギリヤーク人の青年とともに、資金や建設資材集めが始まる。しかし、日露戦争での日本の勝利によって南サハリンは日本領になり、計画は頓挫する。日本領となったサハリンでは、すべてが日本式になっていく。そんななかで、プロニスワフは、アイヌの頭領の養女と結婚して、一女をもうける。しかし、第一次世界大戦ロシア革命ポーランド独立の条件と可能性が生まれると、悩んだ末帰国の道を選ぶ。

 一方、ヤヨマネクフらは、改めて学校づくりにはげみ、サハリンを訪ねてきた若き金田一京助と知り合いにったりするなかで、アイヌの存在と権利の承認を求めて日本本土にわたる。そこで大隈重信二葉亭四迷とも交流する。やがて、白洲中尉の南極探検隊が組織されると、極寒の地で唯一の足になる樺太犬の飼育と世話係として、ヤヨマとシシラトカは探検隊に加わる。アイヌの存在意義を内外に示そうという意図からである。

 第二次世界大戦で日本がポツダム宣言を受託して降伏すると、ソ連軍が南サハリンに侵攻してくる。住民の必至の逃避行が始まるが、ヤマよとシシラトカはそれぞれ日本軍とソ連軍の案内役として駆り出される。日本軍と戦うソ連軍のなかには、冒頭に出てきた女性伍長の姿もあった。傷を負って日本軍の捕虜になったクルニコワ伍長の耳に、どこからともなく響いてくるアイヌの五弦琴の音があった。アイヌという少数民族に視点を据え、抑圧され滅びかねない民族の人間としての誇りと尊厳を問う、読み応えのある佳作である。(2019・12)

 

アビール・ムカジー『カルカッタの殺人』(田村義進訳、早川書房、2019・7)

 第一次世界大戦後の1919年、英国の植民地だったインドのカルカッタを舞台にした異色の推理小説である。作者は、インド系の移民二世のイギリス人で、会計士をしていたが、40歳で自らのアイデンティティー確立のために一念発起して稿をおこしたという。

 主人公ウィンダムは、スコットランドヤード勤務の優秀な刑事であったが、第一次大戦に従軍して生死のあいだをさまよい、親しい友人や戦友の多くを失った。そのうえ、最愛の妻に突然の病で先立たれて生きる希望を失っていたところを、インドのベンガル州警察の総監をしているかつての軍での上官から誘われてその部下としてカルカッタの警察に勤めるようになる。コンビを組む部下にインド人青年で、育ちが良く真面目で頭も切れる部長刑事のバネルジーがおり、もうひとり、イギリス人で警部補佐のディグビーもいる。

 赴任していくばくもないときに、インド人街でしかも娼館の前で州副総督の側近、財務局長のマコーリーが惨殺死体となって発見される。喉を掻き切られ、片方の手はズタズタに切り裂かれ、片方の目は眼窩からえぐり取られていた。誰が何の目的でこのようなむごたらし殺害をおこなったのか? それにしても、英国人の高官がなぜインド人街に足を踏み入れ、しかも娼館を訪れたのか? 

 当時のインドは、イギリスの支配下で、英国人がわがもの顔でのさばり、藍やケシの強制栽培で小麦の作付けが激減し農家は数十万規模で餓死者が出るなど飢饉が頻発、地場産業の衰退により都市部では住民は救貧のきわみにあった。当然のこことして反英闘争がひろがり、さまざまな結社が反英・独立運動をくりひろげ、なかにはテロを武器にたたかう集団もあらわれる。カルカッタでは、英国人はホワイトタウンに、インド人はブラックタウンにと住む場所も画然と区別されていた。ウィンダムは、娼館の経営者の女性や娼婦らから事情聴取をするが、彼女らは何か隠していて口を割らない。

 事件はそうした状況のなかで起こったのである。当然、まず疑われるのは、反英闘争をおこなっている集団、組織である。おりしも、警部補佐のディグビーが、なじみの情報屋を通じて、テロ集団のリーダーで潜航中のベノイ・センがカルカッタに戻っているとの情報をもたらす。犯人はこの男に違いないと、逮捕するのだが、センは、テロという手段に疑問を抱くようになり、非暴力に転じてその立場で運動を広げるために帰ってきたのだと一貫して犯行を否認する。その態度には、真摯なものがあり、ウィンダムの最初の推理はゆらぐ。そこへ、軍の情報部が事件に介入してきて犯人引き渡しを強引に要求する。

 ウィンダムはバネルジーと協力して、マコーリ―と親しかった実業家ジェームズ・バカンやマーコリーの友人であった牧師のグン、さらにマコーリーの後任のスティーヴンスなどの身辺も探る。また、マコーリ―の秘書でイギリス人とインド人の混血で特段の美女であるアニー・グラントにも事情聴取をし、この女性とは、急速に接近する。アンは、ウィンダムと一緒に入ったレストランで食事を断られるなど、非イギリス人として不当な差別を受け、みずからのアイデンティティに違和感を持つ屈折した心境にもある。

 植民地インドのカルカッタでは、イギリス人は表面上は紳士を装っているものの、実態はその反対で、富と私欲を満たすためには手段を選ばない、貪欲で傲慢な人物が圧倒的に多い。インド人は、支配者の英国人にたいして面従腹背、いつ公然と背を向けるかわからない、反抗とナショナリズムの大波のなかにある。ウィンダムの捜査は、なかなか進まないが、改めて事情聴取をした娼婦ディーヴから、殺害現場を目撃した供述があり、牧師からマコーリ―が実業家のバリの依頼で娼婦のあっせんをしていたことが明らかになり、事件の謎が一つひとつほぐれていく。その謎解きの面白さもあるが、英国支配下のインド社会の騒然とした実態がつぶさにえがかれていることに、私は強い印象をうけた。(2019・12)

 

紅葉の谷川温泉

 この夏、格別の猛暑もあって冷房の効いた自宅に閉じこもったまま、避暑を兼ねた恒例の山旅にもいかなかったので、紅葉を見にでかけようかということになったが、さてどこに行くか迷ってしまう。娘に相談したら、谷川温泉を紹介してくれた。距離的にも手ごろで、谷川岳の天神平までロープウェイで登るのも悪くないということになって、11月11日(月)に決行することにした。自宅を9時少し前に出てロマンスカーで新宿にむかい、新宿から湘南特別快速で高崎まで行き、そこから在来線で水上に向かう予定である。

 久しぶりのロマンスカーかから在来線の快速に乗り換え、高崎に着いたのはお昼ころであった。改札を出て、駅構内のレストラン街で昼食をとり、水上行きの各駅停車に乗り込む。窓からの景色が次第に田園から森林地帯に変わり、山裾をぬって山岳地帯へと傾斜を登っていく。水上に着いたのは午後2時すぎだったが、ずいぶんと山深く入り込んだところだと、認識を新たにした次第である。宿は駅から北へ車で10分ほどのところにある谷川温泉の奥まったところにある「檜の湯水上山荘」である。周囲を深紅に色づいた紅葉に囲まれた、こじんまりとした目立たない建物であった。河岸の斜面に建てられており、4階がフロント、3階に大浴場がある。案内されたのはこの階の「谷川」という部屋であった。広々とした座敷で、かけ流しの立派な温泉風呂がついており、窓からは紅葉の川を挟んではるかに谷川岳の一角をのぞめる。あいにく天候がいま一つで山は時々姿をあらわすもののすぐに霧に隠れてしまったが、とても素晴らしく心を癒される落ち着いた風情である。

 ゆっくりくつろいで、ビールを飲みながらテレビで大相撲を観戦、夕食は一階の葉月亭という間で、本格的な和食のコースである。上州牛と赤城鶏の棒葉焼など地元の食材をふんだんにつかった上品な味付けの料理を、谷川岳という地酒とともにゆっくりと賞味する。最後に栗と茸の炊き込みご飯がでてきたが、残念ながらすでに満腹で一口おつきあいするにとどめざるをえなかった。

 周りを見渡すと、私たちと同じと年ごろの老人夫婦のほかに、結構若い夫婦やカップルの姿も目に留まった。紅葉のシーズンも最後で、旅館が料金の割引をしているのだそうだ。真理がここを勧めてくれた理由の一つも、そこにあった。

 

 天一美術館へ

 翌朝目が覚めると、外ははげしい雨である。朝風呂に浸かって着替えたものの散歩に出ることもできず、部屋で時間をつぶす。朝食の後、本日の行動について妻と協議する。天気予報では、昼頃から晴れるとのことなので、水上駅にもどって、谷川岳のロープウェイにむかうかどうか、思案のしどころである。最初は旅館からの送迎車の予約までしたが、空の模様からして、午後からもすっきりした天気は望めそうもないと判断して、外出は断念する。そうと決まればゆっくり休んで、近くにある天一美術館を訪れ、谷川温泉郷を散歩しようということになる。われわれ高齢者には、旅先でのこうした過ごし方も悪くはない。10時も過ぎたころ、旅館に備え付けられた雨傘をさして、出かける。いぜんとして雨は降っているが、宿から美術館までの坂道は周囲の家や旅館の周りが紅葉に覆われていて、濡れたモミジが一段と鮮やかである。美術館へは、ものの10分ほどで到着する。

 天一美術館には一度訪れたことがある。この美術館は、東京の銀座で天一という天ぷら屋を経営していた人が集めた絵画を展示しており、岸田劉生の麗子像が3点ほど、ほかに佐伯祐三熊谷守一安井曽太郎など日本の画家や、ロダンルノワールピカソなどの作品も収蔵している。また、高麗磁器、江戸時代の美人画なども展示している。この美術館の建物は、奈良国立博物館新館の設計などで著名な建築家、吉村順三氏の遺作となった建造物である。私見によれば、展示されている絵のなかには熊谷守一や岸田のそれなど、みるべきものもあるが、自然の中の空間を有効に生かしたとてもシンプルな建造物にこそ、じっくり味わうに足る造形美がそなわっているといえよう。作品の鑑賞を終えて、フロントのあるロビーに戻ると、係員の娘さんが、ハープ茶をふるまってくれる。これは前回もそうだったが、この美術館ならではのおもてなしである。

 美術館を出て、周囲をゆっくり散歩する。通りをはなれてほど遠くないところに、一軒だけ、彩絵という名の瀟洒な建物のイタリアンレストランがある。宿のお兄さんが昼食にと勧めてくれた店である。すでに午後1時を過ぎていたが、ここに入って昼食とる。店は老いた母と二人の娘が切り盛りしている。私はペペロンチーノ、妻はカルボナーラのパスタを注文する。これが本格的なイタリア料理で、いずれもとてもおいしかった。

 そのあとは、宿に戻って前日同様に大相撲を観戦、関脇、大関が全滅という混戦状態に予断を許さない今後の展開への思いをいたす。夕食は、昨夜とおなじ部屋で、イワナの塩焼き、上州牛のしゃぶしゃぶといった地元産の食材による料理を味わう。今夜はワインを飲む。

 

 ロープウェイで快晴の天神平へ

 翌朝、目を覚ますと雲一つない快晴である。窓からは朝日に輝く谷川岳の峻険な姿がくっきりと見える。今日は絶好の山日和である。朝食をすませると、早々出発の準備にかかる。9時すぎに宿の車で水上駅へ行き、観光案内所で天神平へバスからロープウェイに乗り継ぐ乗車券を購入、うのせ温泉、湯檜曽温泉、JR土合駅をへて谷川岳ロープウェイ駅にむかう。周囲の山々は黄色く色づき、今が見ごろである。その色とりどりの華やかさは、いくら眺めていても飽きない。しかし、バスが高度を上げるにつれて、山々は灰色の冬景色になっていく。まわりを見渡すと、欧米系の観光客の姿が目につく。若い高校生くらいの団体もいる。 

 ロープウェイはゴンドラ形式で、ゆっくりと谷川岳の山腹を登っていく。終点でゴンドラを降りると、山頂のトマの耳(1963)、オキの耳(1977)が目の前にくっきりと浮かびあがってくる。上越国境や周辺の山々も連なっていて、これ以上にない雄大な景観を形づくっている。ここからさらにリフトに乗り継いで天神平まで登る。海抜1502メートルである。ここから山頂までは歩いて2時間半くらいであろうか?元気なころなら一気に山頂を目指すのだが、いまのわれわれには、頂を眺めるだけで満足するしかない。それでも、ここまで登っての眺望は、絶品である。谷川岳山頂を背景に、ふたりそれぞれ記念撮影をして、天神平に別れを告げる。

 一の倉沢に足を伸ばすかどうか迷うが、前回体験しているのでパスすることにして、バスで水上駅に戻り、さらに乗り越して駅からさほど遠くない諏訪峡を訪ねる。利根川の河岸に整備された公園で、桜や紅葉の見どころとなっている。川に沿って遊歩道が整備されており、歩くこと15分ほどのところに、与謝野晶子の歌碑がいくつも設置されている。その先に橋があり、これを渡る。このあたりからの川の流れをはさんでの谷川岳の全景は、素晴らしいの一語に尽きる。帰りに公園の入口にある店で黒須饅頭という名物を買い、タクシーで水上駅に戻る。

 駅前のソバ屋で遅い昼食をとり、2時過ぎの列車で高崎に向かう。高崎で3時38分発新幹線トキに乗り換え、4時半に東京駅に到着、中央線で新宿に出て、小田急線に乗り換え、5時範半に町田駅に戻る。自宅近くのカレー専門店、エビンで夕食をとり、ビールで乾杯、帰宅したのは7時過ぎであった。久々のくつろいだ癒しの旅に、二人とも満足。いろいろお世話になった娘に感謝。