司馬遼太郎『菜の花の冲』(文春文庫全6巻)

 このところ作者の労作シリーズ『街道をゆく』を読み続けているが、その第15巻が北海道函館とその周辺をとりあげている。幕末に榎本武揚ひきいる艦隊が上陸して1国を築こうとしたところである。そのなかで、高田屋嘉平についても紹介されている。この人の生涯を描いた『菜の花の冲』という作品があるのを恥ずかしながらはじめて知って読んでみた。1979年に新聞連載されたというから、作者のまさに爛熟期の力作、大変な労作である。

 高田屋嘉平(1769~1827)は、江戸後期の船乗りであり回船商人である。北海道へ進出し、函館を開くとともに、千島列島、とくに択捉の漁場開発に貢献した。そして、ロシア進出で緊張する日ロ関係を軌道に乗せるうえで大きな役割を果たした人物である。司馬作品のほとんどが武士を主人公にしているなかで、当時としては身分的に一番低い商人、それ以下の船乗りを描いたという点でも、異例でもあり注目に値する。なぜなら幕藩体制という封建社会ありさまが、庶民の目線からとらえられ、そのゆがみと矛盾が浮き彫りにされているからである。

 嘉平は淡路島のごく貧しい農家の出身である。生まれた村では生活できず、海岸に接する隣村へ出て海運業などにたずさわる。その村の有力者の娘と親密になったことから排外的な村の若者組によるいじめにあい、島におれなくなって兵庫に逃れ、ここで本格的な船乗りになる。機敏で逞しい肉体に恵まれ、頭脳も明晰、人柄も良い嘉平は、またたくまに頭角を現し、樽廻船や北回船の船長に抜擢される。そして、やがて自前の船をもって、北回船で大掛かりな商売をやるにいたる。しかし、封建社会の網の目は当時の海運業や商業をも支配し、株仲間による営業の独占によって、嘉平のような新参者はなかなか割り込めない。そこで嘉平が目を向けたのは、回船の足を蝦夷にのばし、さらに千島、とくに海流の関係で未開発のままになっている択捉の豊富な漁場の開拓である。

    おりしも、ロシアの進出に脅威を感じ国防に力を入れる幕府は、それまで松前藩にまかせていた北海道を幕府直轄にして、その統治、運営に直接あたるようになる。しかし、支配階級の地位に安住してきた武士たちには、漁業も、商業も、航海もなにひとつできない。そこで北海道経営の軍事以外のすべての面で、嘉平が重用され頼られることになる。

 そのクライマックスが緊張する対ロ関係打開への嘉平の貢献である。毛皮を求めて東に進出してきたロシアは、1783年にはラスクマンの船隊を北海道にさしむけ、通商をもとめるが、用があるなら長崎へまわれと追い返される。1803年にレザノフの一隊が今度はロシア皇帝の親書と贈り物をもって長崎を訪れる。しかし、幕府は半年も長崎港に待機させたうえ、親書もうけとらず追い返す。憤慨したレザノフは独断で部下のラヴォストフ大尉らに指示し、択捉などで幕府の陣屋や漁場を襲い、火をつけ、略奪するという蛮行を働く。これで日ロ関係は一挙に緊張の極に達し、幕府はロシアの軍事的侵攻を前提に蝦夷防備に全力をあげるようになる。

   そんなかで、1811年、ロシアのゴローニン艦長率いるディアナ号が政府の指示でオホーツク、千島の一隊の測量に訪れる。この一隊が食料や水を求めて国後島に上陸したさい、幕府は友好的に対応するかにみせかけて、油断させ、ゴローニンを捕虜にしてしまう。ディアナ号に残されたリコルド少佐は、対抗措置として択捉沖を運航していた高田屋嘉平の船を襲い、嘉平ら6人を拘束してカムチャッカ半島のペトロハバロフスクへ連れていく。

 こうして、日ロ両国にとってのっぴきならない事態を迎えるが、嘉平はロシア側による拘束という状況を逆手にとって、事態の打開に一役買おうと決心する。リコルド少佐らと意思を疎通するためにロシア語の学習からはじめる。リコルドは、嘉平の毅然とした姿勢、真摯な態度、人柄にすっかりほれ込んでいき、二人の間に深い信頼と友情の関係が築かれていく。事態打開の核心は、ラヴォストフ大尉らの蛮行がロシア政府の指示によるものでなく、私的な行為であったことをロシア政府が文書で釈明し、幕府側を安堵させることにある。嘉平は、そのためにリコルド等ロシア側を説得し、幕府との交渉の際は応対役として活躍する。ゴローニンは2年3ヵ月ぶりに帰国を許され、嘉平らも出国の罪を問われることなく帰国することができた。

 高田屋嘉平は、その勇気、構想の大きさ、理解力の深さ・判断力の的確さ、温かい人間味のどれをとっても、武士を含む当時の日本人の水準を大きく抜きんでている。極貧の農民のなかから、こうした人物がなぜ生まれたのか? 作者は、江戸時代における生産力の向上、商品経済の発展と北回船など通商、海運の発展といったなかに、封建的なしがらみにとらわれない自由な志向や発想を持った人間の育つ基盤を見ている。そういえば、この時代に生まれた伊能忠孝、間宮林蔵山片蟠桃、安藤昌益、三浦梅園らの巨匠はいずれも農民など武士以外の階層の出身者である。時代と社会のありかた全体の中から嘉平と言いう人物をとらえ、描き出しているところに、この作品の偉大さがあるといえよう。

    当時の航海、海運、船について克明な解析と紹介があるのも、この作の得難い特徴となっている。なぜ和船に竜骨がなく、一本の帆柱しかもたないのか、すべて徳川幕府の命令によって禁じられていたなど、はじめて知ることが出来た。海運業の歴史を知る上でも貴重な労作である。(2020・10)