遠藤周作『沈黙』(新潮文庫)

 隠れキリシタン関連の世界遺産登録が話題になっているおり、書店の平台に積まれていたので読んでみる気になった。作者はカトリックの信者であるから、無神論者の私はこれまで敬遠して、作品を読んだことがなかった。この作品も、神は存在するのか、信仰とは何かという宗教者にとっては重いテーマを扱っている。

 秀吉から家康へと政権が変わり、徳川幕府は1614年、すべての聖職者を海外へ追放するとともに、過酷な弾圧にのりだす。棄教をうながす踏み絵や、むごたらしい拷問が信者を襲う。そのなかには、聖職者や信者を雲仙地獄にひきたて、湧き出す熱湯をあびせつづけて死に至らすという残虐な仕打ちも含まれていた。そんな時代、ローマ教会に一つの報告がもたらされる。ポルトガルイエズス会が日本へ派遣したクリストヴァン・フェレイラ教父が、長崎で「穴吊り」の拷問にあって、棄教を誓ったというのである。フェレイラは、ポルトガルでもたぐいまれな高潔の教父として多くの司祭、信者から尊敬を集めてきた人物で、日本での20余年にわたる布教で多くの信者を獲得する実績をつくりあげてきた模範的な教父である。

 かつてフェレイラの学生でもあった3人の若い神父が、フェレイラ棄教の真偽をたしかめるとともに、弾圧に苦しむ信者を援助するために日本への渡航を願い出る。セバスチャン・ドロリゴ、フランシス・ガルべ、ホアンテ・サンタ・マルタである。当初、厳しい取り締まりと弾圧下の日本への渡航は危険すぎると渋ったローマ教会は、3人の不退転の決意と熱意を前に渡航をみとめる。1638年3月25日、3人を乗せたインド艦隊の「サンタ・イサベル号」は出航、マデイラ、喜望峰、ゴアを経て苦難の連続をしのいで澳門マカオ)に到着する。ここで巡察師ヴァリニャーノの厳しい警告をうけながら、キチジローなるいかがわし気な日本人と船を雇い、病気のマルタを残して二人の司祭は闇に紛れて長崎付近に上陸する。推測どおり転びキリシタンだったキチジローの案内で、隠れキリシタンの集落を訪れ、信者とともにミサをおこなうなど祭司としての任務を遂行する。追及の手がせまるなかで、ドロリゴとガルべは別行動をとり、それぞれ単独で危険をおかして信徒の住む村で活動する。

 しかし、キチジローの密告によって捕らえられたロドリゴは長崎に送られる。そこで切支丹弾圧の中心となっている井上筑後の守と対座させられる。井上はロドリゴにいかなる危害も加えない。獄に繋がれて一緒に捕らえられた日本人の信者らがむごたらしい拷問のうえ殺されていくのをじっと耐える日がつづく。日本の信者を救うためには、棄教しかないと迫られる。やがて、棄教したフェレイラと対面させられる。フェレイラは、永年の布教によって信者になった日本人の神は、自分たちの神ではなかった、そのことを知って自分たちの布教が無意味であったことを悟ったと語る。むごたらしい拷問、惨殺をまえに、神はなぜ沈黙しているのか? ロドリゴの頭のなかで次第にこの疑問が膨らんでいく。

信徒を助けるためには、踏み絵を踏むしかない、神はそれを許すはずだ、それこそ本当の信仰ではないか? こうした懐疑から、ロドリゴはついに踏み絵を踏む。そして、名前も岡田三右衛門と日本名にかえて、幕府に仕えて生涯を終わる。切支丹屋敷役人の日記がその後の三右衛門の足跡をたんたんと記す。

 神はなぜ沈黙をまもるのか? この疑問への回答は存在しない。ロドリゴの決断を、世界遺産に登録される隠れキリシタンの末裔たちはどう受けとめるであろうか?疑問はいつまでも疑問のままである。(2018・5)     

ルドガ―・ブレグマン著『隷属なき道――AIとの競争に勝つ』(野中香方子訳、文芸春秋)

 

 著者は、1988年生まれ、オランダの歴史家、ジャーナリスト。本書は、オランダで2014年に刊行、国内でベストセラーになり、現在までに20ヶ国で出版が決まっているという。帯の宣伝文句によると、「ピケティに次ぐ欧州の新しい知性の誕生」という。

 資本主義が高度に発展し豊かな社会を実現したにもかかわらず、その富がごく一部の富裕層にかたより、社会的格差がひろがり、労働時間は長くなる。加えて、AI(人工知能)の利用がますます高度に発展し、肉体労働だけでなく知的労働の多くもロボットが担うようになっていくなら、労働者が職を失い、社会的な格差、貧富の差はいよいよ拡大せざるを得ない。中流は崩壊し、青年は未来への希望を失い、いまやうつ病は10代の若者の最大の健康問題になりつつある。資本主義社会は、なんとか抜本的な手を打たなければならないところへ来ている。これがまだ30歳にもならない著者の問題意識である。

 高度に発達した生産力を生かすなら、富を思い切って再配分し、労働時間を抜本的に短縮する、そして国境を開放することによって労働力の自由な移動を可能にする、これが著者の提案である。働いているか否かにかかわらずすべての国民に必要な生活費を保障するベーシック・インカムの実施、一日3時間労働、週15時間への労働時間の抜本的短縮、そして、どこの発展途上国からであれ、豊かな国へ自由に移住できるよう国境を思い切って解放すること、そうすれば人類が多年にわたって夢見てきたユートピアが実現するはずだ、というのである。 

 著者はこうした提案が、今日の資本主義の発展の到達点から実現可能であることを、歴史的な実例によってしめそうとする。ベーシックインカムについては、これまで実験的に実施してきたケニヤ、ウガンダ、カナダでの実例を紹介し、ベーシック・インカムで生活を保障されたら、人間は働かなくなり、怠惰になるという社会的偏見を論駁する。収入を保障された貧しい人々は、学び生活の計画を立てるゆとりができ、したがって長期的に見れば社会的経費の節減にもつながる、という。そして何よりも、アメリカで1960年代にニクソン政権がこの制度を実施しようと計画したのだという。欠乏と貧困こそ、人間を駄目にし、人々のIQを下げるもという。

 労働時間についてはどうか? 1930年にケインズは、2030年には、人々の労働時間は週15時間になると予言した。ところが、産業革命以来続いた労働時間の短縮は、1970年以降突然ストップした。消費をあおり、拡大するために、資本主義は借金しても物を買うことを労働者にすすめ、強制するにいたり、消費生活を維持するためには長時間働かなければならない仕組みを作り出してきた。そのため、労働時間は短縮するどころか、ますます伸びるに至っている。加えてAIロボットによる労働の代替えによって、多くの労働者が職を失うにいたる。これを避けるために労働時間の抜本的短縮は避けがたくなっている、という。

 中世フランスでは、一年のうち半年は休暇だったという。1930年のケインズの時代より、2000年には少なくとも社会は5倍豊かになっている。労働時間を思い切って短くする社会的条件は十分整っている。そして労働時間の抜本的短縮によって解放される自由な時間こそ、人間の人間らしいくらしと進歩の最大の保証になるという。ここでは、カール・マルクスも引き合いに出される。国境の解放についての著者の主張はよく理解しにくいのだが、それによって豊かな国の労働者の仕事が減るようなことはなく、むしろ世界の総生産は大きく成長する、富の偏在の要因は、国境にこそある、というのがその主張である。

 著者によれば、今日、左翼が“負け犬の社会主義者”になってしまって、このような大胆な、変革への勇気も熱意も失っている。ここにこそ最大の問題があるという。奴隷解放も、女性の選挙権も、同性婚の容認も、その時代には途方もない非常識で、それらを唱えた人々は狂人とみなされた。「だがそれは、彼らが正しかったことを、歴史が証明するまでのはなしだった」という。

ここで提起されていることは、生産手段を私的営利のためにのみ運用する資本主義的所有制を社会的な所有・管理・運営にかえること、すなわち生産手段の社会化によってこそ実現されうるであろう。著者はその一歩手前まで接近している。(2018・5)

豊下樽彦著『安保条約の成立―吉田外交と天皇外交』(岩波新書、1996)

 ごく最近読んだ白井聡著『国体――菊と星条旗』(集英社新書)で紹介されていたので、初めてこの本の存在を知った。一番よく読む岩波新書なのになぜこれまで知らなかったのか、不思議である。これは日米安保条約がどのようにして成立したかを分析した貴重な研究であって、戦後日本の政治史を解くうえで欠くことのできない必読文献である。著者は、本書刊行当時、京都大学法学部准教授で、1945年生まれである。

 本書が書かれた直接の動機は、「はしがき」に以下のように記されている。「かつて読売新聞の防衛担当記者として活躍された堂場肇氏が取材の過程で収集された膨大な資料(現在は「堂場文書」として青山学院大学に所蔵)のなかから、60年代の後半に外務省条約局法規課が取りまとめた『平和条約の締結に関する調書』と題する一連の文書をみる機会にめぐまれた。1950年秋からサンフランシスコ講和会議までの1年間に関するだけで1300頁を越える5冊の『調書』と、それらに付された資料集としての『付録』が作成されているが、これら『調書』と『付録』こそ、82年の公開文書の“原文”と考えられる。これらを読みこむことによって、これまで文書の「非公開」のために“空白部分”となってきた、安保条約の成立過程におけるバーゲニングの問題はもとより、基地提供の性格付け、「集団的自衛権」の位置づけ、「極東条項」への対応、「朝鮮有事」の評価、「安保タダ乗り」論の生成の背景など、今日の論争点にも直結するような諸問題を、新しい角度から捉えなおすことが可能となった。しかし、何よりも重要なことは、これらの文書と米側の史料とをつきあわせることによって、はたして安保条約は吉田茂首相の「ワンマン外交」の所産としてのみ捉えることができるのかという根本的な疑問が生じてきたことである。そこからは、吉田を“超える”ところの昭和天皇による「天皇外交」とも呼ぶべきべクトルが外交過程に介入したことが、安保条約のあり方に決定的ともいえるインパクトを及ぼしたのではないか、という一つの「仮説」をさえたてることができるのである」

 ここには、本書の内容の核心が端的に述べられている。講和条約にともなう日本の安全保障について、政府、外務省は当初、国連憲章にもとづく集団的安全保障の枠組みで、国連からアメリカへの委託として、日本に軍隊を駐留させることにし、日本はこれに対して基地の提供という便宜をはかる、すなわち日米の双務的な関係による条約を考えていた。したがって、国連による集団的安全保障の一環として東北アジアに非武地帯を設置する案も検討されていた。ところがアメリカは、日本の安全保障を国連からきりはなし、日本の強い希望に米側がこたえて軍隊の駐留に応じるという、論理でのぞむ。米軍の駐留はアメリカの権利であって、日本の防衛を目的としたものではなく、極東におけるアメリカの戦略の必要によるものである、したがって、いつでもどこへでも、自由に行動できる権利、すなわち全土基地方式が当然である、というのが米側の論理であった。このようにして他に例をみない屈辱的な主権侵害の差別条約をおしつけられる結果になる。

 筆者は、これはベテラン外交官であった吉田茂首相の無能によるものと決めつけるわけにいかないのではないかという。基地提供というカードをはじめから提示ししかも全土基地方式をあっさりみとめるなど、外交の常識では考えられないという。吉田が、講和会議への出席をぎりぎりまで渋るという常識では考えられない態度をとったのも、安保条約が吉田の意にそわなかったためで、署名したくなかったからではないかというのが、筆者の推理である。すなわち、吉田外交とは別に昭和天皇による別の外交が働き、臣・茂はその圧力に屈したのではないかというのである。

 中国革命、朝鮮有事、国内での左翼勢力の伸長などの当時の内外情勢のもとで、“象徴”となったものの、なお主権者意識を持っておった天皇がなによりもおそれたのは、ソ連の干渉または共産革命により天皇制が廃止されることであった。これを防ぐためには、沖縄を提供し、全土基地方式による米軍の駐留を自ら提起するしかない、というのが天皇と側近たちの考えであった。萬世一系の天皇の「国体護持」こそ、何をおいても守り抜かなければならない、昭和天皇の絶対的な使命であった。そのために天皇は、首相、マッカーサーではなく、アメリカ政府に直結するルートまでつくって、みずからの意思を米側に伝えつづけた。天皇を崇拝し、臣・茂として頻繁に内奏を繰り返していた吉田は、その意志に逆らうわけにいかなかった、というのである。筆者は、一つの仮説として提起しているが、これが真実ではないか、だとすれば昭和天皇の罪は計り知れないことになる。白井が「国体」は戦後もつづく、ただしアメリカを主権者として、と説くのもうなずける。(2018・5)

エミリー・ブロンテ『嵐が丘』(小野寺健訳、光文社文庫)

 著名な作品で当然読んでいて良いはずなのだが、目を通す機会がなかったということはしばしばある。私にとってこの作品はその一つであった。映画にもなんどもなっているのだが、それらに接する機会もなかった。さきごろたまたま新聞の読書欄に、この作品を座右において手放したことがないという女性のエッセイが載っていて、ふと読んでみる気になった。光文社版を選んだのは、訳が一番新しかったからで、とくに理由があったわけではない。

 19世紀半ばの作品で、イギリスの北部、ヨークシャーのヒースの生える寒村を舞台にした物語で、作者はこれ一作を書いて29歳で生涯を終えている。一読して驚いたことに、私が予想していた内容とはおよそ違ったすさまじい話である。若い女性が書いたというから、生真面目な女性の成長物語くらいに思っていたのが、およそ見当外れだったのである。

 これはおぞましい復讐劇である。ヒースクリフという不幸な生い立ちの主人公が、自分を差別し、しいたげた嵐が丘の人々に襲いかかり、徹底的に破滅させていくのである。

 アーンショウ家の娘、幼馴染で仲の良かったキャッサリンが、自分を捨て、リントン家のエドガーと結婚したのに絶望したヒースクリフは、嵐が丘の家から姿を消す。三年後に現れた時は、人が変わったようにたくましく成人している。彼は、自分を追い落したキャサリンの兄、ヒンドリーをその性格の弱さに付け込んで破滅させ、嵐が丘の財産をもすべて奪う。そして、キャサリンエドガー夫妻の間にも介入して、二人を自殺同様の無残な死に追いやり、その財産をも独り占めにする。そして、復讐の手を、ヒンドリーの息子や、エドガー、キャサリン夫妻の娘にまで伸ばしてゆく。これはもはや正気の沙汰ではない。

 ヒースクリフとは、ヒースの崖という意味である。その名がしめすように、荒れ果て憎しみに歪んだ得体のしれない性格の男である。若い女性の作者がどうしてこのような人間を描き出したのか、とても理解しがたい。イギリスは当時産業革命を経て、資本主義が本格的に発達する時代である。ヒースの生い茂る荒涼としたヨークシャーの山地には、そのような社会的変動は感じられない。ただ、イギリス伝統の貴族制度、身分制度が、ヒースクリフを不幸に追いやる根底に横たわっている。そう言う社会で虐げられた人間の憤怒と怨念を描いているとも言えなくもない。しかし、ヒースクリフのおぞましい魂の根底にあるのは、キャサリンへの不動の愛である。その不愉快きわまる言動や人柄にもかかわらずにである。ここに、この作品のむずかしさがある。

 この作品は、ロンドンの都会暮らしを逃れて嵐が丘の屋敷を借りて住み出したロックウッドという男が、屋敷の所有者であるヒースクリフへの挨拶に訪れるところからはじまる。初対面のヒースクリフとその家族の客に対する対応ははじめから異様で不気味である。いったいどういう一家かと不思議に感じたこの男に、屋敷付きの女中のネリーが語り聞かせるという形で話が進む。したがって、ヒースクリフヒースクリフをめぐる人間たちの物語であるが、ネリーという女中の目を通した物語であり、語られる内容は、貴族に仕えるこの女性の価値観や感性を反映している。そういう意味では、描かれている人物がどこまで、その真相をとらえているかは定かではない。ヒースクリフにしても、キャサリンにしても、とても不可解なところが多い。そのことが、作品の不出来を意味するのか、深さを意味するのか、私には判断しかねる。はたしてそれほどの名作か、という疑問もぬぐえない。(2018・5)

 

白井聡著『国体――菊と星条旗』(集英社新書)

 先日、地元の9条の会で「安倍政治の源流――日本会議とは何か?」と題して講演をおこなった。日本会議の思想と実態をつうじて、これに支えられ一体化している安倍政治の本質を深くとらえる手掛かりになれば、という意図で話をした。その中心点は、日本会議の原点が1937年に文部省が刊行した皇国史観のもっとも狂信的な到達点をしめす『国体の本義』にあるということにあった。それからしばらくして、本書を店頭で見つけて興味をもって購入し、読んでみた。著者は1977年生まれ。早稲田大から一ツ橋大の大学院に学び、京都精華大の講師をしている若い学者である。『永続敗戦論――戦後日本の核心』で石橋湛山賞を受けている。

 戦前の支配層が戦争終結を決意したのも、ポツダム宣言の受け入れに踏み切ったのも、「国体」の護持が最大の動機であった。そして、戦後、新憲法制定にあたって、国会論戦で最大の争点になったのは「国体」が変わるか否かであった。吉田茂首相をはじめ当時の支配層は、野党側からどんなに激しく追求されても、「国体」は変わらないと主張しとおした。万世一系天皇主権から、国民主権に根本的に転換する憲法の制定にあたりながら、これは驚くべきことであるが、「国体」の護持はそれほど至上命令だったといえる。

 著者は、戦前の「国体」は戦後も引き継がれたという見地を基本にすえる。しかし戦後の「国体」はアメリカが主権を握る占領支配の継続であり、天皇はアメリカの支配を受け入れ、その統治を助ける存在として機能してきたという。だから、アメリカが日本の主権を握る根本的な事態を不問にしたまま、憲法を変えるか、変えないかの議論は不毛だというのが著者の見解のようである。アメリカに主権を握られたまま、憲法を変えようと変えまいと、日本はアメリカの世界規模での戦争の片棒を担がされ、これからもいっそう増大してその役割を担わされていく、というのである。

 米軍基地の存在を「日本の防衛」「世界の警察」「中国の脅威」などで合理化する議論に対して、「対米従属を合理化しようとするこれらの言説は、ただ一つの真実に達しないための駄弁である。そして、ただひとつの結論とは、実に単純なことであり、日本は独立国ではなく、そうありたいという意思すらもっておらず、かつ、そのような現実を否認している、という事実である」という。

 著者によれば、敗戦後日本に進駐してきたアメリカ軍の総司令官マッカーサーと会見した天皇が、自分はどうなってもいい、国民を救ってほしいと要請し、これにマッカーサーが感激し、天皇に敬意をいだいた、というどこまで真実か定かでない神話によって、天皇の国民にたいする責任は果たされ、昨日まで鬼畜米英であったにもかかわらず、国民がマッカーサーの支配をうけいれる精神的な道筋が引かれたという。

 かくて「戦後の国体」は、占領下の天皇制民主主義としてはじまり、1960年の安保改定を支配層が乗り切ったことによって定着した、という。この時期は、東西冷戦のただなかである。日本は、安全保障をアメリカにゆだね、基地を提供し、沖縄を犠牲にし(昭和天皇が講和にあたって米軍の駐留と沖縄の日本からの切り離しをアメリカに要請したのはその象徴である)、そのかわりに高度経済成長という経済的繁栄を手に入れた。しかし、1990年代に冷戦構造がなくなり、日本の経済的繁栄も終わり、アメリカが主権を握る戦後「国体」の存在意義は消失した。にもかかわらず、対米従属は解消されるどころか、ますます深まり、そこから抜け出す選択肢すらないかの如くである。ここに、現代日本の最大の不幸があるというのが、本書のおおよその論旨である。

 これまでの論議にとらわれない大胆な発想とシャープな切口で、現代日本の根本問題にずばり切り込んでいるのは見事である。しかし、60年代から70年代にかけての新左翼の評価など個々の論点に納得できないところがあるばかりでなく、根本において、日本国民のたたかいとそれによる歴史的な前進への展望が、本書のかぎりでは視野に入ってこないことを指摘しないわけにいかない。占領下、あるいはその後の安保体制のなかで、民主主義と対米従属打破のたたかいには、マスコミをふくめ決定的ともいえる弱点をいまも抱えながらも、沖縄県民のたたかいにもみるように、また安保条約の廃棄、対米従属打破の主張が一歩ずつ国民的共感を広げつつある事実のうちに、時間はかかっても日本の将来を切り開く条件が蓄積されていることを見落としてはならない。(2018・5)

 

 

ジョセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(集英社ラテンアメリカ文学11)

 ラテンアメリカ文学に接する機会はこれまでほとんどなかった。作者のドノソ(1924~)は、チリを代表する作家のひとりだそうだが、実は名前も知らなかった。どこかで、奇妙奇天烈な小説として紹介されていたので、読んでみる気になった。奇妙な作品といえば夏目漱石が若いころ紹介したイギリスのローレンス・スターン『トリスタム・シャンディー』を思い出すが、これも時空をこえたとてつもない作品で、空白のページがあったり、図形を挿入しただけで空白のページがあったりする荒唐無稽の実験的な作品である。しかしその内容そのものは、途方もなく現実離れしたものではない。

 それにくらべて、この作品は、時空を超越し、現実と非現実の境もわからない、文字通り支離滅裂、統合失調症的な作品である。それでいて、妙にエネルギッシュで不思議な熱気と生命力のようなものを感じさせる。こんな作品に出会ったのははじめてである。刊行されたのは1970年というから、左翼のアジェンデ政権が生まれたものの、アメリカのCIAと組んだ国内の大ブルジョアジーなど反動派による反革命によってむごたらしい血の海に崩壊した時代である。作者はこの作品でなにをいいたかったのか、巻末の解説ではブルジョア社会の腐敗をえぐるのが一つのねらいだったようにいうが、一読してもよくわからない。B5判で500ページに及ぶ大作で、しかも数回にわたって作者が書き直した作品だという。

 話は、老人たちが住みつくある修道院を主舞台に、口も眼も耳も不自由なムディートという老人の独白のような形で進められる。植民地時代から名門の当主であるヘロニモ・デ・アスコイティアは、同じ上流社会に属する従妹のイネスと結婚して、上院議員として政界の要人となっている。念願の子どもが生まれるのだが、これがまともに目をむけることもできない異常な奇形児である。ヘロニモは初めてわが子に対面し、即時に殺害しようと考えるが、思いとどまる。そして、腹心のウンベルト・ベニャローサ――じつはこれがムディートと同一人物――にわが子の養育を託する。そして、子どもをリンコナーダという広大な屋敷に幽閉し、そこにあらゆる種類の重度の障害児、奇形児を雇いあつめて、わが子=<ボーイ>と一緒に暮らさせるのである。ベニャローサは、その子とともに生活しながら、主人ヘロニモの伝記の執筆にとりかかるが、作業はすすまない。それどころか、大喀血をともなう病に見舞われ、衰弱して歳をとり、ヘロニモが出資している修道院に送られる。そこでムディートと名のって、老婆や孤児たちと一緒に暮らしながら、悪夢のような自分のおぞましい過去と生い立ちを語る。

 この修道院では、数人の老婆たちが一人の少女をかくまい、その出産の準備をしている。老婆たちはこの少女は処女受胎で、マリアの受胎につぐ奇跡の再現だと考えている。しかし、実は、少女の恋人のお面のようなものをかぶったムディートが、恋人になり代わって孕ませたのかもしれない。それどころか、ヘロニモの妻、イネスの妊娠も、ヘロニモに代わったムディートの行為に責任があるようにも語られる。しかし、それらが現実なのかムディートの妄想かは定かでない。だいたい、老衰して死にかかっているムディートに少女を妊娠させることなど不可能のはずだが、このあたりに、時空を超えたこの作品の奔放さがしめされている。

 裕福なブルジョア、地主の世界の行く末を、おぞましい奇形児と障碍者の群れで象徴させているといえなくもない。老婆と孤児が生活する修道院のみじめな姿に、カトリックへの皮肉をこめているともとれないこともない。しかし、この作品がかもしだす世界はそんな単純化を許さない不思議で異様な熱気とエネルギーに満ちている。(2018・4)

 

はじめてのテレビジョン

 1949年、5年生の修学旅行先は、長野市だった。新潟県に近い柏原の小林一茶記念館を訪ねた後、15年ぶりの御開帳を迎えた善光寺にお詣りをし、戦後初めて開かれた長野平和博覧会を見学した。もの心ついてから、県外に出るのは初めてで、しかも長野市という当時の私たちにとっては大都市を訪れたのだから、心踊る大冒険であった。大人になってから調べてみると、この博覧会はアメリカを紹介する特設館が最大の目玉で、自動車や電気冷蔵庫、電気洗濯機など当時の日本人にとっては夢のような豪華絢爛たる最新の文明のシンボルが展示されていた。

 それらについての記憶はまったくないのだが、私にとって最大の驚きは、この博覧会で生まれて初めてテレビジョンなるものを目にしたことである。壁をへだてた別の部屋で踊り子が演技をしている姿が、まったく見えない別室に据えられた箱型をしたケースのガラスの画面にそっくりそのまま映し出されるのである。当時でも電話はあったから、音声が空間を超えて伝達されることは知っていたのだが、壁や空間をへだてて映像が移動してくるということは、私にとってはとても信じがたいことであった。しかも、それが動く映像であるから、なおさらである。ビックリ仰天、“こんなことがほんとにありうるのか”というのが、率直な感想だった。このときの衝撃の大きさは、80歳になるいまにいたまで鮮烈な印象を私の心に残しつづけている。

 博覧会のもう一つの目玉だった「特設テレビジョン館」での体験である。後で調べてみると、展示されていたのは、525走査線による東芝の試作品であった。それから10年後にはテレビが一般の家庭にまで普及してくるのだが、当時そんなことは夢にも考えられなかった。

 ついでに記すと、翌年6年生の修学旅行先は新潟市であった。私にとっては、6年ぶりの懐かしい故郷への旅である。信越線の新潟駅に着くと、川幅の広い信濃川にかかる萬代橋を渡る。この橋ははっきり私の記憶にのこっていた。市最大の繁華街である古町の大通りにある大和デパートも、母に連れられて良く行ったところだ。宿は、万代橋の近くにある修学旅行専門の旅館だったと記憶する。

 私にはなじみの新潟だが、いっしょに行動する同級生にとっては、初めて見る大都会で驚きの連続だった。なにしろ、汽車に乗るのが生まれて初めてという子もいたのだから無理もない。なかでも子どもたちにとって一番の驚きは、デパートのエレベーターだった。大きな箱に入ると、なにもしないのに屋上まで連れて行ってくれる。こんな便利なものはないと、子どもたちはくりかえしくり返しエレベータに乗って飽きなかった。山のなかの複式授業の分教場の子どもたちであるから、修学旅行は5、6年生合同だったのか、それともたった11人の同学年だけだったのか、その辺の記憶は定かでない。いまの子どもには想像もできない昔のことである。