ディケンズ短編集(小池滋、石塚裕子訳、岩波文庫)

 

 ディケンズと言えば、大長編作家というのが常識である。『短編集』があるというのは知っていたが読んだことはなかった。このたびこの作者の作品を系統的に読んできたので、この機会に目を通すことにした。収められているのは、初期の長編である『ピクウィック・クラブ』のなかに織り込まれている挿話などが中心で、独立した作品として発表されたものは、後半の「追い詰められて」「子守女の話」「信号手」「ジョージ・シルバーマンの釈明」の4本だけである。「墓堀り男をさらった鬼の話」「旅商人の話」「奇妙な依頼人の話」「狂人の日記」の4篇は『ピクウィック・クラブ』からの収録、「グロッグツヴィッヒの男爵」「チャールズ2世時代に獄中で発見された告白書」「ある自虐者の物語」の3本は他の長編小説に収められていた挿話である。

 ディケンズは他にも多くの短編小説を書いているようだが、本書の解説によるとここに収録した作品には次の三つの特徴が際立っているという。「1、超自然的で、ホラーとコミックが奇妙に混在していること、2、ミステリー的要素が強いこと、3、人間の異常心理の追究」。そういえば、『ピクウィック・クラブ』などは、主人公のピクウィックが無類の好人物で禿げ頭に鼻眼鏡をかけた太っちょという設定で、明るくユーモラスな作品だが、どういうわけかそのなかに挿入されている逸話は、いずれも暗く陰湿な人間がえがかれている。最初の「墓堀り男をさらった鬼の話」は、クリスマスの夜に陰気で孤独な男、ゲイブリエル・グラブが鬼に出会い、改心を迫られるという話である。クリスマスの三夜にわたって孤独で貪欲な主人公が幽霊に諭される後の『クリスマス・キャロル』の原型ともいえる話である。「奇妙な依頼人の話」は、借金が返せないで債務監獄に入れられている間に、妻と幼いこどもを極貧のうちに亡くした主人公が、家族の窮状を黙殺した妻の兄に復讐する話である。

 「ある自虐者の物語」「ジョージ・シルバーマンの釈明」は、恵まれない環境にそだった主人公が周囲の人たちの善意や親切をことごとく自分に対する優位を示す裏のある行為と受け取るという特異な心理を描き出した作品である。自己卑下と裏腹の周囲に対する軽蔑、さげすみが結局のところ自己を破滅に導くというストーリーである。他の作品も似たり寄ったりで、いずれも暗く陰湿で、なかにはスリリングな要素の強いものもある。

 『ピクウィック・クラブ』のような明るく陽気な作品のなかになぜディケンズがこのような挿話を挟み込んだのか、正直のところ理解に苦しむ。物語の展開による必然性もまったくないのである。当時長い作品のなかに、独立した小編を織り込むのが一つの作風だったと言えばそれまでだが、それにしても作品と異質な感は否めない。

 ディケンズは、軍人であった父親が家計の破綻で一時債務監獄に収容されたさい、10歳そこそこで少年工として靴墨工場でのきびしい労働を強いられている。いまも残るきわだった階級社会で最下層の労働者に貶められた屈辱と絶望は、感受性の強いこどもだったディケンズの生涯とその精神生活にとって、癒すことのできない傷跡を残したといわれている。暗く陰湿でいじけた人間を、貧困や債務奴隷の悲劇とともに描くことに執着した背景には、ディケンズ自身のこうした体験があったことは間違いないであろう。そして、そのことがディケンズの眼を貧困や下層社会をふくむ社会全体に向けさせ、作品の広がりと厚みを生む力になったことも明らかであろう。陰気で暗い人間を描いた短編集はそのことを教えてくれる。(2018・8)

 

アイザック・ディネーセン『アフリカの日々』(横山貞子訳、晶文社、1985)

 朝日新聞の読書欄に比較的最近紹介されていたのを目にとめ、興味をひかれて読んでみた。作者、ディーネセン(1885~1962)は、デンマークを代表する作家だが、作品を読むのは今回が初めてである。ディネーセンは、1914年にスェーデンの貴族プリクセン男爵と結婚してアフリカに渡り、ケニヤのナイロビ近くの高地に6000エーカーの土地を購入して、コーヒー農園の経営に乗り出す。しかし、農園は海抜が高くコーヒー栽培には適さなかったうえ、結婚生活はすぐに破綻、にもかかわらずアフリカを愛する作者は、大地にしっかり根を下ろして1931年まで18年間、農園経営で苦闘を続ける。その体験を回想的につづったのが本書である。1934年に初版が出ている。作品は1985年に公開されたシドニー・ボラック監督、メルリー・ストリープ主演の映画「愛と哀しみの果て」の原作である。映画は、アカデミー賞を受賞している。

 ケニヤは当時イギリスの植民地であった。作者は植民地経営の一端を担う支配者としてそこにおもむいたのである。相手は文明のおよばぬ未開の大地であり、住民は、マサイ、キクユ、ソマリ族などの野蛮な原住民である。多くの西欧人が当然のこととしてこの地と人々を軽蔑し、いかなる意味でも自分達とは異質の一段劣った人間として突き放してとらえていた。そんななかで、ディネーセンはアフリカの大地、ケニヤの高地の豊かな緑と爽やかな風、象やキリン、バファローなどの野生動物が駆け抜ける草原など、その豊かな自然に魅せられただけではない。様々な種族からなるアフリカの人々になじみ、その文化と伝統、生活様式、あるいは思考様式を深く理解し、それらを公正に評価し尊重するだけでなく、敬意をもって接する。一言でいえば、アフリカの自然と人々との交わりに、みずからの新たな生命と息吹をみいだしたのである。

 例えば、自分の農園の一部を借りて耕作をする原住民との関係について次のように述べる。「私は六千エーカーの土地をもっていたので、コーヒー園以外にかなりの空地があった。農園の一部は自然林で、一千エーカーほどが借地、いわゆるシャムパスになっていた。借地人は土地の人で、白人の農園の中で何エーカーかを家族とともに耕作し、借地賃代わりに、年に何日か農園主のために働く。私のところの借地人たちはこの関係について別の見方をしていたと思う。というのは、彼らの大半は父親の代からその場所で生まれ育っているからだ。彼らの方では私のことを一種の高級借地人とみなしていたらしい」 ここでは、主客が逆転して、自分達こそ土地の主人公だという原住民のプライドを素直にそのまま認めているのである。自宅の邸宅には、大勢の原住民が従僕としてあるいはハウス・ボーイとして働いている。これらの人たちに対しても、主人公はきわめてていちょうであり、温かく節度のある接し方をしている。

 あるとき、屋敷のしごとを手伝っている子供たちの間でたまたま猟銃の誤射事件があり、一人の子どもが死亡し、一人が瀕死の重傷を負う事件が起こる。西洋の常識では、犯人は誰で、犯行の動機はなにかをまず究め、それによって量刑を判断する。ところが、ケニヤの原住民の間では、まず被害者の損失はどれほどか、それを償うには牡牛何頭が必要かが問題になる。犯行にどういう動機があったかなどはさほど重要視されないのだ。こうした、文化の違い、思考様式の違いをよく観察し、それにたいして理解と尊敬をしめす。ここにディネーセンの卓越した人間性があらわれている。

 アフリカの人々が植民地支配から脱却して自らの手で独立した国家をつくりだしている現代なら、ディネーセンのような態度や思考はさほど珍しいものではないだろう。しかし、時代は、二〇世紀初めという植民地主義の全盛期である。アフリカとそこに生きる人々への人間としての温かさ、偏見のない心の広さ、率直さは、敬服に値する。美しくたくましいい自然の描写とあわせて、本書がいまも読者を魅了するゆえんである。(2018・8)

  

チャールズ・ディケンズ『ピクウィック・クラブ』(北川悌二訳、ちくま文庫)

 ディケンズが24歳のときに書いた最初の長編小説である。最初は出版社が著名な画家の絵の連作出版を企画し、その絵に添える文章を新人のディケンズに依頼したのだが、文を主体にしてこれに絵を添えてはどうかとのディケンズの逆提案によって実現したのである。ピクウィックという実業界を引退した富裕で無邪気、格別に人の良い人物を中心にした社交クラブ、ピクウィック・クラブで、ピクウィックが3人のが友人とともに、従僕のサム・ウェラーを従えて旅に出て、旅先での経験や失敗談を報告するといった形で話が展開される。だから、出たとこ勝負でまとまったストーリーや構成があるわけではない。それだけに、自由奔放にはなしが次々に繰り出される。初版は400部だったが、たちまち4万人の読者をもつベストセラーになり、作者を一躍して売れっ子作家に押し上げたという。

 こうした系列の先行作品として代表的なのは、スペインのセルバンテスが書いた『ドン・キホ~テ』がある。こちらは理想に燃える騎士、ドン・キホーテがその夢と理想を悉く裏切る世俗にまみれた現実に悲憤慷慨して笑いをさそうのだが、『ピクウイック・クラブ』の方は、善意と人間愛にあふれた好人物が、資本主義の勃興期をむかえる19世紀イギリスの世知辛い現実に直面して、はめられたり、裏切られたり、失敗を重ねたりしながら、読者を笑いとユーモアに誘い、それらを通じての鋭い社会・文明批判ともなっている。

 もともと、16、7世紀のスペイン、イギリスなどにピカレスク小説と言って、多くの場合、下層階級出身の悪漢が旅先であばれまわり活躍するという系列の物語が読まれていたという。『ドン・キホーテ』などもその系列の傑作のひとつといえる。そういえば日本にも、江戸時代の19世紀初めに十返舎一句による『東海道中膝栗毛』なる道中記が出版され、評判を呼んでいる。いわゆる弥次さん、喜多さんのコンビが、旅先での滑稽なふるまいで笑わせるという趣向の読み物である。こちらは、正義や人道、社会批評といった要素は少なく、もっぱら滑稽に終始しているから、その社会的な意味合いは異なるが、洋の東西で旅行記という体裁をとった風刺作品が登場したというのは興味深い。

 さて、肝心の『ピックウィック』だが、登場人物は主人公は、禿げ頭ででぶっちょ、鼻眼鏡をかけている。従僕のサム・ミューラーは主人公とは対照的にスマートな生粋のロンドンっ子で、才知にたけ世慣れた青年、たびたび主人公の窮地を救うなど、ピクウィックの従僕としてはうってつけの人物である。同行する友人は、大の女好きでそれが失敗のもととなるタップマン、自称スポーツマンのウィンクル、詩人のスノッドグラース氏の3人である。すでに述べたようにストーリーがあるわけではなく、旅先での失敗談が多い。たとえばピクウィックが、ある詐欺師の紳士と従僕のわなにかかって、結婚詐欺から女教師を救うために寄宿舎制の女学校の寮に夜間しのびこんで、大騒動をおこしたり、あるいは、旅先の宿でピクウィックが夜間に部屋を間違えて、淑女の部屋に入り込んで、のっぴきならない窮地に追い込まれる等などである。

 なかでも注目されるのは当時の裁判制度にたいする風刺、批判である。ピクウィックは下宿しているのだが、そこの貸主であるバーデル夫人にたいしてちょっと親切なふるまいをしたのをプロポーズと誤解され、一方的な婚約破棄でこの婦人から訴訟を起こされる。悪徳弁護士や特権的だが常識に欠ける裁判官などによって、有罪判決を受けたピクウィックは、慰謝料と裁判費用の支払いを拒否して、当時存在した債務者監獄に収容される。作品の後半はこの債務者監獄の悲惨で非人道的な実態の告発に多くのページを割いている。

 とりとめもない話が続くという面もあるが、それらをつうじて19世紀前半のイギリス社会とそこに生きる貧者をふくむ人々のありさまが、実に生き生きと描き出されていて興味が尽きない。(2018・8)

 

奥泉光『雪の階』(中央公論新社、2018・2)

 作者は、1956年生まれ。94年に『石の来歴』で芥川賞、2009年に『神器』で野間文芸賞、2014年に『東京自叙伝』で谷崎潤一郎賞を受賞している。現在、芥川賞の選考委員をも務める。近畿大教授。以上の経歴からわかるようにベテラン作家である。しかし私が作品を読んだのは今回が初めてである。感想を一言でいうなら、1936年の陸軍青年将校によるクーデタ未遂、2・26事件前夜を舞台にしたミステリー仕立ての重厚な物語である。

   この作品は、武田泰淳の『貴族の階段』、または松本清張の最晩年作『神々の乱心』にヒントを得ていると言われる。武田の作品は読んでいないのでわからないが、松本の作品は比較的最近読んでいるので、なるほどとうなずかされる。皇室と新興宗教といういわば禁断のテーマに大胆に踏み込んだ作品である。『雪の階』も皇室や宗教をあつかうが、それは本来の純粋な日本と日本人を再興するために外来の血で汚された天皇による支配、国体を否定し、天皇制を一掃せよと主張する超右翼思想を特徴としている。

 女子学習院に通う惟佐子は、笹宮伯爵の令嬢である。和服の良く似合う美貌の持ち主であるとともに、なみはずれた才知に富み、数学と囲碁を趣味としている。親友の女学生で書にたける宇田川寿子が、いっしょに参加するはずの音楽会に姿を見せない。不審におもっていると、仙台の消印があるハガキがとどき、約束をほごにしたわびと再会への期待が記されていた。ところが、翌日、富士山の裾野の青木ヶ原で、寿子とある陸軍中尉との心中とおぼしき死体が発見される。寿子が妊娠中であることも判明。青木ヶ原で死ぬ人間がなぜ仙台からハガキをよこしたのか、疑問におもった惟佐子の探索がはじまる。

 華族の令嬢には、こどものころ“おあいて”なる付き人がつく。惟佐子は、元“おあいて”で今は新進の女性カメラマンになっている牧村千代子に相談を持ち掛け、牧村が知り合いの新聞記者、蔵原に協力を求める。こうして、華族の娘と二人のジャーナリストによる謎解きが始まる。おりしも、天皇機関説の排撃を説く右翼、陸軍などの不穏な潮流が跋扈し、惟佐子の父の笹宮伯爵は、その急先鋒となっている。そのため笹宮家には、陸軍将校や右翼、政友会メンバーなどの出入りが絶えない。惟佐子の10歳違いの兄も近衛師団の将校である。千代子と蔵原は、ハガキの発信地仙台におもむき、寿子の足跡を追うなかで、茨城県の鹿島にある紅玉院なる尼寺に行きつく。そこの庵主が霊能をもつとの評判で、皇族や高級軍人夫人などの出入りが絶えないという。庵主の素性を調べていくと、意外なことにこの庵主こそ、純粋な日本人の血を汚す天皇の排除を説く大元であることがわかってくる。寿子がこの寺をたずねたようだが、いったいどういうつながりがあるのか?

 謎がいよいよ深まるなか惟佐子は、来日したドイツ人のピアニストの演奏会に招かれる。ピアニストは、カルトシュタインといいドイツ心霊音楽協会なる団体の一員で、在独中の惟佐子叔父とつながりがある。叔父をつうじて惟佐子のことを知り、惟佐子に日光への観光案内を依頼してくる。そしてこのドイツ人が宿泊した旅先の宿で変死する。実はこのピアニストは、ナチスとつながっている。この事件の背後にも惟佐子の兄の影など不穏な動きが察知される。こうして謎は、国際的な広がりをもふくみつつ、幾重にも重なっていく。そして、惟佐子の兄をもまきこんで陸軍青年将校らの決起の日が刻々と迫る。クーデタの前々日、2月24日の夜、東京には、年来にない大雪が降る。2・26当日の東京は一面銀世界であった。

 軍部、政界をふくむ激動の歴史的背景と国際的な陰謀をうかがわせるスケールの大きな舞台設定で、右からの天皇制否定など独特な極右思想の持ち主を軸に、物語は重層的に展開されるのだが、事件の謎そのものは意外に平板な結末に終わる。その意味では、大ぶろしきのわりに、思想的な内容は乏しいというのが私の実感でもある。(2018・8)

宮部みゆき『過ぎ去りし王国の城』(角川文庫、2018・6)

 この作者の作品を以前にはよく読んでいたのだが、この数年間遠ざかっていた。たまたま書店でこの文庫が目にとまり、一見風変わりなタイトルに惹かれて読んでみた。作者は、『火車』や『理由』など、現代社会のシリアスな問題を題材、テーマにしたミステリーとともに、『あやし』など江戸時代を舞台に幽玄の世界を描く、幻想ものともいえる作品を結構たくさん書いている。青年将校らのクーデタ未遂事件、2・26事件をえがいた『蒲生邸事件』などもその手法を駆使した作品である。本作もまた、現実と非現実の世界を交錯させる作者ならではの世界をえがく。

 推薦入学が決まって時間を持て余す高校三年生の尾垣真は、ある日銀行のロビーに展示されていた小学生の絵に添えるようにぶら下がっていた一枚のデッサンに魅せられ、家に持ち帰る。ヨーロッパの古城を描いた作品である。真はごくごく目立たない、普通の少年である。まわりからはつまらないやつとみなされている。真がデッサンに手を触れると、デッサンの世界に引き込まれるような感覚に陥る。そこで、この絵に人間を書き込み、そこに手を添えると本当に絵の世界に、ヨーロッパの中世の世界に入り込んでしまう。しかし、入ったとたんにバタっと倒れてしまう。真は、これは自分の描いた人間がへたくそだからだと悟る。そこで、まわりから無視され、いじめの対象にもなっている同級生の城田珠美がとてつもなく絵がうまいことに気づき、城田にデッサンの秘密を語り、協力を申し出る。城田は、周囲の軽蔑や黙殺に超然としているが、実は、父の再婚相手の義母とうまくいかず、携帯電話で時々父と言葉を交わすのが唯一の慰みという生活を送っている。

 城田は真の提案にしだいに乗り気になり、デッサンの画面にツバメを書き込む。真がこれに手を添えるとツバメとなって古城の世界で実際に空を飛ぶことができた。そして、古城の塔の窓から顔を出す一人の少女を発見する。少女は閉じ込められているのではないか、救わなければ、と真はおもう。こんどは、城田に人間を2人書き込んでもらい、真と珠美の2人で古城の世界に入り込む。しかし、森や林をくぐっても古城には到達できない。そのかわりに、古城の世界で、バクさんという中年のおじさんに出会う。漫画家を志望しながら、実際には有名漫画家のアシスタントに甘んじているバクさんの心の底には、現状への失意が潜んでいる。バクさんもまた、例の銀行ロビーでデッサンに目をとめ、それを撮影してコンピュータ画面を通じて古城の世界に入り込んでいたのである。

 バクさんから真たちは、10年も前に真らの街で起こって迷宮入りしている少女失踪事件のことを知らされる。不明となった少女は、母とも再婚した母の連れ合いともうまくいかず、虐待まがいの仕打ちもうけていたとのことであった。バクさんによれば、古城の少女は行方不明となっているこの少女である。バクさんと城田は、この少女を救出しようという。しかし、それが実際にできれば、10年前の少女失踪事件はなかったことになり、少女は生きていて19歳になっているはずだ。それは、真らの住む世界とは違った世界の現出である。それをあえて実行するか、現状に不満のバクさんと城田は断行を主張するが、現状に不満のない真はとまどう。

 概略こんなストーリーなのだが、奇想天外と言えばそれまでである。しかし、絵を描くことに、あるいは魅入った絵に夢中になって、実際に絵の世界に入り込んでしまうことはありうることである。現実に不幸を背負い、そこからの脱出をねがうバクさんや古城にとって、そこに希望と夢を託する気持ちが混入してもおかしくない。そんな、夢と現実の交錯を、作者はたくみにメルヘンチックに描きだしている。(2018・7)

チャールズ・ディケンズ『オリバー・ツイスト』(加賀山卓朗訳、新潮文庫)

 ディケンズ(1812~1870)の長編第二作、事実上のデビュー作ともいえる作品で、1838年に刊行されている。前作の『ピクウィック』は未だ読んでいないが、コミカルな作品なのにたいして、この作品は行き倒れの女が救貧院で生んだ孤児の物語で、大変シリアスな内容である。後の大作『大いなる遺産』や『デイヴィッド・コッパーフィールド』にも通じる、その原型ともいえる作品といってよい。

 リバプールマンチェスター間に最初の鉄道が施設されたのがたしか1830年だから、当時はイギリス資本主義の勃興期、産業革命のさなかである。ロンドなど大都市には、貧しい労働者の大群とともに、失業者、貧窮者があふれ、さまざまな悪徳や犯罪も横行する。同国で9歳以下の児童労働を禁じる最初の工場法が制定されるのが1833年、40年代初めには労働者の普通選挙権を要求するチャーティと運動がもりあがる。同国には、18世紀に整備されたそれなりの救貧制度が存在したが、自由主義思想などの影響のもとに1834年に救貧制度の見直し、「救貧は最下級の労働者以下」とするなどの大改悪がおこなわれた。マルクスエンゲルスはこれにたいして、「もっとも明白なプロレタリアートにたいするブルジョアジーの宣戦布告」と評した。ディケンズの筆鋒は、まずこの新しい救貧制度に向けられる。 

 救貧院でオリバーを生んだ若い女性は、最後の力を振り絞ってわが子にキスをしてこと切れてしまう。孤児となったオリバーは救貧院で育てられる。しかし、改正された救貧院制度は、一般市民から徴収される救貧税を減らすために、生命の維持ギリギリ以下に経費を切り詰め、収容者の数が減るのをなによりの目標にする。オリバーら幼い子どもたちは、食事に茶碗一杯の薄粥しかあたえられず、文字通りの飢餓状態を強いられる。耐えられなくなったオリバーが「お代わりを下さい」と口にしたことが最悪の不信心、悪行と断罪され、懲罰として年季奉公に出される。葬儀屋の下働きである。

 そこを逃げ出した幼いオリバーは、何日もかけてロンドンにたどり着く。そこでオリバーを待ち構えていたのは、フェインギというユダヤ人を中心とする窃盗団の一味であり、それを牛耳る凶悪な犯罪者、ビル・サイクスである。行き場のないオリバーは、この集団と生活をともにする間に、スリの一味として警察に追われ、捕らえらる。そしてあわやというところで、親切な紳士、ブラウンローにすくわれる。ブラウンローのもとで生まれて初めて人間らしい扱いを受けるオリバーだが、フェイギンらはオリバーを見逃しはしない。外出中に強制的に身柄を拘束され、今度は強盗団の手先役を強いられる。しかし、ここでも、犯罪者グループの一人であるナンシーという女性とともに、被害者となるはずのメイリ―夫人と美しい娘のローズに助けられる。そして話は、次第にオリバーから、ブラウンロー氏らと犯罪者集団とのたたかいへと移っていく。ブラウンロー氏らはサイクス、フェイギンらを追い詰めていく。その過程で、オリバーの出生の秘密、出自も明らかになり、最後はハッピーエンドとなる。

 主題が次第にオリバーから離れて、犯罪者集団とのとりもの的な話になり、オリバーの出生の秘密もかなりむりなストーリーとなっているなど、作品の出来としては決して褒められたものではない。しかし、サイクス、フェイギンらの犯罪者たちをふくめて、ディケンズの描く人間たちはとても生きいきとしていて、良い意味でも悪い意意味でも人間味に溢れ、魅力的である。そこを貫く社会の底辺の人々へのあたたかいまなざしと、不合理な社会制度に対する痛烈な批判が、この作品の魅力となっている。(2018・7)

 

ヴィクトール・K・フランクル『夜と霧 新版』(池田香代子訳、みすず書房、2002)

 ナチスアウシュビッツ収容所での体験を記録した有名な本書は、若いころに当然読んでおいてしかるべきであった。しかし、著者のフランクルが、フロイド系の精神科医であることへの違和感もあって、そのうちそのうちにと思いながら、ついに読まずにきた。最近になって、訳者の池田さんの講演を聞きに行った妻が訳者のサイン入りの本書を購入してきたのを機会に、ようやく読んでみようかという気になった。感想を一言でいえば、やはり知識人であり心理学の専門家ならではのすぐれた観察と分析があり、人間存在とはなにかについて深く考えさせる良書である。

 著者をふくむ1500人のユダヤ人は、ある日突然、ウイーンから荷物同様に貨車で何日も移送される。突然収容者の一人が叫ぶ。「駅の看板がある――アウシュビッツだ!」と。人々は、底なしの恐怖のなかへ追いやられる。そこでまず人々を襲うのは収容ショックである。溺れる者は藁をもつかむという。死刑執行をまえにした囚人は、恩赦妄想にとらわれるという。自分は恩赦になるのではないか、という妄想である。貨車から降ろされ、縞模様の囚人服を着た収容者の群れに放り込まれた収容者たちは、まずそんな妄想にとらわれるという。

 収容所生活で次に襲ってくるのは、感動の消滅だという。いっさいの人間的な感情が鈍化し、消滅してしまうのである。虐待と非人間的扱い、極端に悪い栄養状態と衛生にたいする人間の保存本能、自己防御反応であるという。苦しむ人間、病人、瀕死の人間、死者のどれを前にしても、何の感情も湧かなくなる。数週間の収容所生活で見慣れた光景になり、心が麻痺してしまうのである。死体がころがれば、その靴を奪い、衣服をはぐ。それが当たり前になる。そういう収容者の中でも、たえず選別がおこなわれる。ガス室へ送られるものと強制労働に就かせられるものの選別、監督や炊事当番に抜擢されるものと、その指図に従うものとへの選別など。そして選りだされた者のなかには、一般収容者にたいしてゲシュタポ以上に残虐な暴力をふるうものがいるのもめずらしくない。

 収容者における人間の「退行」は、収容者の夢に典型的に表れるという。美味しいパンの、たばこの、ゆったりしたお風呂の夢等々。「未来を失った状態」「生きるしかばね」こそ、収容者たちを形容するにピッタリだという。そうした極限のなかで、人間らしさ、とりわけ人間の自由はどうなるのだろうか? 著者はこの問題について、考察をすすめる。あらゆる肉体的精神的自由を奪われ、ほしいままの虐待にさらされて、人間らしさはどこに残るのか? 頭の中で妻と会話をかわし、自分の過去を思い出すこと、これらは、どんな強制と過酷な現実によっても奪うことはできないと、著者は自分の体験から証言する。著者はいう。「人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りの言葉を口にする存在でもあるのだ」と。

 収容所からの放免の際に直面する心理についても、述べられている。極度の緊張状態から解放された人間は、場合によっては精神の健康を損ねるという。権力、暴力、恣意の客体だった人間が、解放とともにその主体に転嫁することもある。また、夢にみた家族の喪失に直面して呆然自失するケースもある。「新たに手に入れた自由のなかで運命から手渡された失意は、のりこえることがきわめて困難な体験であって、精神医学の見地からも、これを克服することは容易ではない」。奇跡的に生きのびた著者もまた、最愛の妻の喪失という現実に直面しなければならなかったのだ。(2018・7)