ジュリー・オオツカ『あのとき、天皇は神だった』(小竹由美子訳、フィルムアート社、2018・8)

 第二次大戦中、アメリカ在住の日系人は敵性外国人として強制的に収容所に隔離収容されていた。その辛い体験を描いたのがこの作品だが、2002年に刊行、翻訳が出されたものの絶版になっていた。トランプ大統領による移民排斥でふたたび注目を浴びるようになって、このほど新たに翻訳が出版された。作者は日系三世で1962年にカルフォルニア州バロアルトに生まれる。祖父母と母の体験などをもとに書いている。

 第二次大戦がはじまって間もなく、カルフォルニアバークレーに住む日系人家族を突然の不幸が襲う。入浴中の父がバスロープのまま逮捕、連行される。そして一夜のうちにある告知が、掲示板や電柱に、バス停のベンチに、ショウウインドウにとあちこちに張り出される。日系人をただちに退去させ、強制収容所に送る行政命令である。母と子どもの姉弟は、行先もつげられないまま、身支度をいそぐ。持っていけるのは身の回りのものだけ、飼い犬も猫もダメ。母は老犬のシロを処分し、庭に穴を掘って埋める。まだ幼い弟がシロの行先を問うが母はあいまいに答えを濁す。飼っていた小鳥は、籠から出して解放してやる。こうしてあわただしく乗車した列車は、ブラインドを固く閉ざしたまま、何処へとも知れず出発する。

 三人が連れていかれたのは、ユタ州の砂漠の中に鉄柵で囲まれた収容所で、荒れ果てた砂地のうえにバラック建ての小屋が並んでいるだけだった。樹木も草も生えない荒れ地で、なんの楽しみも希望もない、四六時中監視つきの集団生活が始まる。その一日一日が、主として幼い弟の目を通して語られる。三人にとって唯一の慰めは、別に収容されている父から届く頼りである。父は、罪人として特別の収容所に隔離されているようだが、手紙には元気でいると記されている。

 収容所では、忠誠審査がおこなわれ、命令を受けたらいかなる場所であろうとも合衆国軍隊の戦闘任務に服しますかと、回答を迫られる。拒否した人は、日本への強制送還となる。そして、米軍への志願者の募集が行われ、青壮年の男性が応募していく。子どもも母も、収容所での単調な生活に飽き、日にちも曜日も分からなくなる。当初熱心に新聞を読んでいた母は、見向きもしなくなる。夏になると、砂漠は灼熱の地獄になる。砂塵がまって家じゅう砂だらけになる。四月のある日、有刺鉄線に近づいた披収容者の一人の男が、衛兵に射殺される。警告を無視して逃亡をはかったというのだが、男は耳が悪かった。殺された現場近くに珍しい花があり、これを採ろうとしたのだと男の友人は証言した。葬儀には、収容所の人々、二〇〇〇人近くも参加した。

 戦争が終わって間もなく、親子三人は家に帰される。そのとき二五ドル支給される。二五ドルとは、犯罪者が刑期を終えて釈放されるときに支給される金額とのことである。自宅に帰っても、周囲の人々の白眼視や嫌がらせはつづき、生活の道は閉ざされたままである。仕事をしたくても日系人を雇うところがない。母は、雑役婦として日銭を稼いで、日々をしのぐ。父がようやく釈放されて帰ってくるが、精神を病んで家に閉じこもる。

 在米日系人家族のこんな日々が、淡々とつづられている。感情を表に出さず、日々のささいな事実だけが語られる。合衆国政府が公式に謝罪し、日系人の名誉が回復されたのは、一九八〇年代になってである。(2018・11)