高村薫『土の記』(新潮社、2016)

  高村薫といえば、『マークスの山』『リヴィエラを撃て』『レディ・ジョーカー』など推理小説をまず思い浮かべる。『晴子情歌』など大地に根差した女の何代にもわたる年代記もある。ところが本作は、奈良県の山深い農村の過疎化した集落を舞台に、農業にたずさわる一人の初老の男のごく平凡な日常生活をテーマにしている。四季折々の自然とそこに生きる動物の動きや小鳥のさえずり、蛙の鳴き声などをていねいに克明に描き出しながら、早くも認知症気味の72歳の伊佐夫のコメ作り、茶の栽培にいそしむ様子が、これも克明につづられていく。静かな自然に包まれ、大地と一体に生きるその姿は、わたしの子どものころの農村風景とも重なり、とてもなつかしい記憶をよみがえらせてくれる。

 伊佐夫は、大学で地質学を学び、学者の道に進みたかったのだが、電気会社に勤め、代だい庄屋であった旧家の長女、昭代の婿としてこの田舎に住みついた。昭代が15年前に交通事故で植物人間となり、半年前に他界するまでその介護をしてきた。元気なころの昭代には男がいて、伊佐夫の不在中に山道を登ってその男と逢瀬をくりかえしていたらしい。交通事故に遭ったのも、そのこととかかわりがあるのではないか、と伊佐夫もおもい、村でも噂になっていた。伊佐夫は、初期の認知症で現実と幻の境も定まらないなかで、昭代との暮らしを思い出しあれこれ詮索する。しかし、その思考も長く続くことなく、稲作の段取りや茶の新芽摘みのことに気を取られ、そちらに没頭する日々を送る。愛犬のモモと、田んぼで捕まえて飼っている鯰の花子が伊佐夫の日びのお相手である。

 妻の昭代には久代という妹がおり、嫁家の夫に先立たれ、実家の義兄である伊佐夫のもとになにかと訪ねてきて、次第に居つくようになる。フラダンスを習うという久代と伊佐夫のあいだは、しだいに親密の度を増していくが、それはごく自然な関係を出ない。集落では、共同の田植があり、村祭りがあり、盆参りもある。そして共同作業の道普請が終わると、恒例の宴会が開かれる。過疎の村でありながら、それだけに濃密な人間関係も営まれている。これらも、私が少年時代に郷里で体験してきたことである。当時そうした人間関係の濃密さに耐えがたい息づまりを感じ、何とか早くそこから逃れたいと願い続けたこともおもいおこさせる。

 伊佐夫夫妻には陽子という娘が一人いる。母の昭代と大変折り合いが悪く、いがみ合いが続いたが、娘一人をもうけて離婚、いまは娘と一緒にアメリカに住む。昭代の葬儀には娘と子どもも帰国して、伊佐夫も会ってはいるが、その後、たまに電話があるだけで、次第に疎遠になっている。11年3月11日、東北大震災、福島原発事故が発生、娘は電話で、伊佐夫に避難してアメリカへ移住するよう勧める。しばらくしてこの娘が、獣医をしているアメリカ人と再婚し、お盆に家族3人ではるばる伊佐夫を訪ねてくる。伊佐夫と久代は、歓迎の準備にいそがしく、集落では全員そろって歓迎の宴をはる。ケヴィンという名の陽子の夫は、陽気な好人物で、伊佐夫とも村人ともすぐに打ち解け、ワンダフル、ワンダフルを連発する。このアメリカ帰りの娘一家との交流が、この作品のクライマックスである。陽子の娘は、中学生でテニスに打ち込んでいて、来日まえにイギリスを訪問、ウインブルドンでテニスの試合をみてきている。その話も披露され、宴は盛り上がる。

 一家がアメリカへ帰ると、村ではやがて稲の出穂をむかえる。それから間もなく、大型台風が紀伊半島を襲う。雨量は千八百ミリを超え、村では大規模な土石流が発生し、県内の死者行方不明者は26人を数える。そのなかには〇〇もいた。(2018・2)