西永良成著『「レ・ミゼラブル」の世界』(岩波新書、2017・3)

 ビクトル・ユゴー(1802~1885)の『ノートルダム・ド・パリ』を読んだのはごく最近である。『レ・ミゼラブル』は、中学生の頃『噫無常』と題する黒岩流香訳で読んだ記憶があるが、そこからの子ども向け翻案であったようにも思う。原作を読んだのは、比較的最近になる10年ほど前、豊島与志雄訳の岩波文庫版全4冊によってである。そんなこともあって、書店で本書を目に留めて購入したのだが、未読のまま積んでおいた。たまたま昨日、近くの東芝林間病院前立腺の検査で赴いたさい待ち時間に読むのに持参し、読みだしたら面白いので本日の午前中までかけて読み切った。作者は1944年生まれ、東京外大の名誉教授で、2012~14年にちくま文庫で『レ・ミゼラブル』の全訳を出している。デュマやサルトルの研究者でもある。

 『レ・ミゼラブル』はユゴーが1845年に書き出して途中中断し、1860年から改稿にとりかかり、62年に刊行している。この間、1848年の2月革命で王政が廃止され、6月のパリ労働者の蜂起がむごたらしい弾圧で鎮圧され、12月にはナポレオンの甥,ルイ・ナポレオンが大統領になり、翌年国民の圧倒的多数の支持で皇帝となる。ユゴーは、根っからのナポレオン・ボナパルトの崇拝者で、1815年に成立する復古王政のもとでは王政を支持するが、48年の革命の後は共和派の国会議員として活躍する。しかし、ルイ・ナポレオンがクーデターで全権力をにぎり、皇帝に即位するに至ると、これと正面か対決する。追放されてベルギーに亡命、ルイが失脚する71年まで亡命先で苦難の生活をおくる。本書は、この歴史的時代とユゴーの政治活動、政治思想に焦点をあて、そこから『レ・ミゼラブル』の作品解説を試みている。

 主人公ジャン・ヴァルジャンは、1769年に生まれ、飢える家族を救うために一切れのパンをぬすもうとした罪で監獄へ入れられ、何度かの脱走の試みで刑を加算され、1815年に20年ぶりに釈放される。そして、銀の燭台を盗んで再び逮捕されるところをミリエル司教に救われ、改心して、まっとうな人間として市長にまでなる。娼婦となって苦しむ薄幸の娘フォンティーヌに救いの手を差し伸べ、その子であるコゼットを助けることを約束する。しかし、前科のあることがあきらかになり、再びとらわれる。その後、波乱万丈の経過を経て、コゼットを救いわが子としてともに生きるのだが、成長したコゼットにマリウスという恋人ができる。マリウスは革命組織の一員で1832年6月の蜂起に中心人物の一人として参加、蜂起の敗北で生死の境をさまよう。娘を盗られたと嫉妬していたジャン・ヴァルジャンは、命をかけでマリウスを救う。

 作品のごく大まかな筋はこんなところだが、作品を貫くナポレオン崇拝、共和主義者、民主主義者としてのユゴーの政治思想、とくに貧困の撲滅、死刑廃止論社会主義への傾斜、理神論に近い宗教的立場などが、手際よく紹介されていく。

 「おわりに」で西永は、ユゴーの友人のラマルティーヌがこの作品を批判した次の文章を紹介する。「要するに『レ・ミゼラブル』には最高の才能、誠実な意図が見られるが、次の二つの理由できわめて危険な本である。それはこの本が、幸福な者たちをあまりにも怖がらせ、不幸な者たちにあまりにも期待をもたせるからだ」。そして、現代作家のマリオ・パルガス・リョサの名著『ビクトル・ユゴーと「レ・ミゼラブル」』から次の言葉を紹介する。「ラマルティーヌは批判するつもりだったのだが、図らずもユゴーの作品の最大の長所を言い当てているのだ」。本書が、フランス文学を代表し、世界で最も広く読まれている名作へのすぐれた手引きであることは間違いない。(2018・3)