プリーモ・レ-ヴィ『休戦』(岩波文庫)

  作者は1911年にイタリアのトリーノで生まれたユダヤ人の化学者であった。1943年、ムソリーニのファシズム政権は崩れるが、イタリアは戦乱状態となり、レーヴィは、「正義と自由」という反ファッショのパルチザン部隊に加わった。そして、ファシスト軍に捕らえられ、44年2月にドイツ軍に引き渡されて、アウシュヴィッツへ送られる。彼とともに連行された650人のユダヤ人は、労働力の提供者と処分者(ガス室送り)とに選別され、レーヴィは強制労働の方に回される。1944年1月、重病で生死の境をさまようなかソ連軍によって救出されるが、生き残ったのはレーヴィをふくめてたったの3人だった。

 レーヴィは、アウシュヴィッツでの体験を『アウシュヴィッツは終わらない』(1947年刊)に書いた。本作はそのいわば続編で、アウシュヴィッツから解放されたレーヴィが翌年の末にトリーノに帰り着くまでの長い波乱に満ちた日々を描いている(1963年刊)。それは、アウシュヴィッツで完全に奪われ破壊された人間性を再び取り戻す旅でもあった。アウシュヴィッツでの極限における過酷なたたかいから、戦後の新しい生活、あたらしいいたたかいにいどむまでの中間期、その意味で『休戦』と題されている。

 ロシア軍が到着した時のアウシュヴィッツの様子はどんなだったであろうか。ドイツ軍が逃げ出したさいレーヴィのいたラーゲルの病室には、800人の病人が残されていた。そのうち500人はロシア軍が到着する前に病と飢えと寒さで死亡、200人が治療を受けたにもかかわらず、ロシア軍の到着直後に死亡している。そして、病人以外は、すべて撤退するドイツ軍によって処分、抹殺されたのである。しょう紅熱で意識もうろうとして生死の境をさまよっていたレーヴィは、幸いに快方に向かう。

 しかし、囚人を解放したロシア軍は戦時下の混乱のうえに、独特のおおらかさというかずさんさでレーヴィらにむきあった。レーヴィらはイタリアではなく、なぜかソ連に送られ、さらにルーマニアハンガリーオーストリアへと列車で運ばれる。そして、停車したところで期間もその先の見通しも告げられぬまま何か月もの滞在を強いられるという日々を送る。金もなく、仕事もなく、そこには、各地から集められた国籍も人種もさまざまな囚人や捕虜たちが、何千人もごったがえしている。レーヴィはそうした日々のなかで、さまざまな人々と生活を共にし知り合いになり、助け助けられる。そのなかには、不思議な知性と道徳律を持つギリシャ人のモルド・ナフムとか、有能な商人のイタリア人チョーザレ、若い看護婦から娼婦、ロシア軍の将校や兵士等など多彩な人びとがふくまれる。支給される食事の他に毎日の食料や衣服の調達のための労苦もある。そうした日々をつうじて、レーヴィは触れ合った人々を観察し、鋭い洞察力をもって、その多様な人間像を描き出している。それがこの作品の魅力となっている。

 ようやくイタリア国境にたどり着いたレーヴィは、次のように書く。「しかし家の戸口で、良きにつけ、悪しきにつけ、ある試練が待ち受けていることは分かっていた。それを恐れとともに予期していた。私たちは血管に、疲れ切った血液とともに、アウシュヴィッツの血が流れているのを感じていた。私たちはどこで再び生き始める力を見出せばいいのだろうか? あらゆる不在の時に、人のいない家や空っぽのねぐらのまわりに、自然にできあがってしまう柵や垣根を打ち壊す力を、どうやって見つければいいのだろうか?」と。そこには、アウシュヴィッツがレーヴィらから奪い去ったものの取り返しのつかない重みが、語られている。(2020・11)