ジャニス・P・ニムラ『少女たちの明治維新――ふたつの文化を生きた30年』(志村昌子、藪本多恵子訳。原書房、2016年)

 先ごろたまたまNHKテレビで大山巌夫人となった山川捨松の生涯を紹介する番組を見る機会があった。明治3年(1871年)、10歳のとき津田うめ(6歳)、永井繁(9歳)らとともに岩倉具視を団長とする欧米視察団に同行し、10年余アメリカで生活し、教育を受けて日本に帰国し、鹿鳴館の女王とも呼ばれた女性である。軍人で日露戦争では日本軍の司令官として活躍し伯爵にまでなった大山とは20歳以上も離れていたが、終生お互いにファーストネームで呼び合っていたという。大変興味深かったので、ネットで調べてみると表題の本があることを知った。さっそく図書館から借りだして読んでみた。

 アメリカ人女性である著者は、日本人と結婚して東京にも住んだことのある東アジア史の研究家である。うめや捨松のアメリカ時代からの親友で来日して教鞭もとったことのあるアリス・べ―コンが書いた日本滞在記を地下の古本の中から発見して読んだことから、この少女らに強い関心をもって丹念に取材し、本書を書いたという。明治の初めにアメリカに渡った幼い少女たちが、自分たちの育った日本とはまったくちがった文化と社会のなかで、とまどいながらも、温かく見守り導く人々に恵まれ、生き生きと育っていくようすが、愛情のこもったこまやかな筆づかいで見事に描きだされていて、大変な感動をもって読み終えることができた。

 総勢100人を超す大規模な岩倉視察団が派遣されたのは、維新政府が欧米との不平等条約を解消する前提として日本の欧化・近代化をおしすすめるためである。捨松、うめ、繁、りょう、ていの5人の少女が、10年間を予定してアメリカで教育を受ける任務をもって視察団に加わったのは、帰国後日本の女子教育を担ってもらう意図からだったようだ(5人のうち、りょうとていは、1年後に帰国している)。しかし、帰国したときは日本国内では欧化に批判的な風潮が広がっていて、彼女らを受け入れる政治状況ではなくなっていた。そのこともあって、アメリカで成長して教育も受けて帰ってきた少女たちは、まったくなじめない日本に戸惑い、苦悩しながら、初志をつらぬくために努力することになる。

 一番年下のうめは、独身でとおし、華族女学校や東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大)で教鞭をとるが、それに満足せず、独自に女子教育のための私塾を開設し、大山夫人となった捨松も、貴族社社会で活躍しながらこれに協力する。繁は、音楽を専攻し、帰国後すぐ結婚、東京女子高等師範の教師になって、7人の子供を育てながら日本での音楽教育に生涯をささげる。感銘を受けたのは、この三人がアメリカ在住時代にも兄弟のように育っているのだが、帰国後もそれぞれ境遇を異にしながら終生親しく交わり助け合っていることである。その情景を、おなじ女性である著者は親しみを込めて描きあげている。

 アメリカで彼女たちを家族として世話をしいつくしんできた牧師のベーコン一家の人々や駐米日本公使代理だった森有礼の秘書を務めていたランマン氏夫妻、そして高校、大学の友人たちとの生涯にわたる密接な交流も、本書の充実した内容にひときわ魅力を添えている。とくにベーコン一家の末娘であったアリス・ベーコンは、捨松の最も近しい姉として、またうめの親友として、得難い役割を果たしている。うめらの懇請で二度にわたって来日して日本で英語を教えたのも、うめが私塾を開くにあたってアメリカで資金の調達に奔走してくれたのも、アリスである。捨松、うめらは日本で女性の低い地位や境遇に苦しみ困難に突き当たるたびに、英文でアメリカの母や友人に手紙を書き、慰められている。なにしろ、うめは帰国したときには、日本語を話すことも読むこともまったく出来なかったのである。少女時代をアメリカで過ごした彼女たちにとって、アメリカこそ心の故郷であったともいえよう。(2020・12)