斎藤幸平著『人新世の「資本論」』(集英社新書、2020・9)

 気象変動による地球と人類の危機を救うには、グローバル化した資本主義とそのもとでの「経済成長」を前提としたあれこれの打開案では不可能で、資本主義のシステムそのものを打破して、新しい社会システムをつくるしかない、というのが本書の主題である。著者は30歳代の若い研究者で、この新しい社会システムを「脱成長コミュニズム」と名付ける。そして、『資本論』で有名なカールマルクスの理論に依拠しながら、これまでのマルクス主義(著者によれば、生産力至上主義と欧米中心主義を特徴とするという)ではなく、マルクスが晩年に到達した「脱成長」「西欧中心主義からの脱却」という新しい視点にたって、「脱成長コミュニズム」の必要を説く。

 読み始めて、ずいぶん大胆で過激なことをいうと感じたが、終りまで読みこむとなかなかまっとうな理にかなった主張であることがわかる。たしかに今日の気象変動がつづけば、地球の平均気温は上昇し続け、近い将来に地球と人類に壊滅的な打撃を及ぼすことは必至である。2016年に発効したパリ協定では、2100年までの気温上昇を産業革命以前より2%未満に抑えるという目標を掲げたが、これさえ達成は危ぶまれている。第二次大戦後の世界経済の飛躍的な急成長と経済のグローバル化をそのままにして、気象変動の危機を克服することはむずかしい。一部の発達した資本主義国が大量の二酸化炭素を排出しつづけ、グローバルサウスへの犠牲と負担おしつけのうえに、著者の言う「帝国的生活」を謳歌するのをそのままにして、あれこれの対策を提案しても、それが欺瞞と自己満足におわるのは当然である。

    資本主義が最大限利潤の追求を経済原理とする以上、その「成長戦略」はとどまるところを知らない。それを担う労働者には、低賃金と長労働時間、劣悪な環境を強いつつ、資源の浪費も自然の破壊もいとわずに、負担と犠牲を途上国やいわゆるグローバルサウスにおしつけ続けて恥じないのが資本主義である。働く人々が生産手段から切り離され、生産手段を独占する資本家のいいなりに働き、そのなりふりかまわぬ利益追求に奉仕するしか生きるすべがない社会、これが資本主義社会である。この社会制度が極限まで発達して、自然も環境も破壊し続けるのをこれ以上容認するわけにいかない。生産手段を中心に社会的富をコモン(共有)にし、利潤追及の「経済成長」ではなく、社会のみんなが潤う社会にしよう、そこでは、労働時間の抜本的な短縮による自由な時間の創出が、人々の総意と活力の発揮をうながす、それがマルクスの言う本来のコミュニズムである。著者のいう「ラジカルな潤沢さ」を求める「脱成長コミュニズム」も、内容的にはその多くが相通ずる。説得力があり、うなずけるところが多い。

 これらの提起を、今日の国際的な視野から論じ、スペインのバルセロナでの試行など世界各地でのインタナショナルな実践的努力の経験も紹介しながら、そうした社会へ向かって人々の積極的なとりくみをよびかけているのが、本書の大きな魅力である。ただ、著者が、これまでのマルクス主義ソ連型のマルクス主義と同一視し、それがために自分の見地をあえて晩年のマルクス、「脱成長マルクス」として押し出していることに、いささかの一面化を見ないわけにいかない。「成長」が資本主義固有の利潤第一主義を意味するなら、ここからの脱却はマルクスの一貫した主張である。マルクスが唱えたコミュニズムが環境や自然との調和のとれた「生産力の発展」を否定しないことは、著者の「ラジカルな爛熟」にも通じるところである。著者は「脱成長」「非西欧」はマルクス晩年特有として、マルクスのザスーリチへの手紙をその裏付けとして引き合いに出す。しかし、これはロシアの農村共同体を基礎に社会主義への道を見いだせないかというザスーリチの問いに対して、マルクスが西ヨーロッパの発達した資本主義の成果が現に存在する条件のもとでは、資本主義の道を通らずに農村共同体から社会主義へ進む可能性があることを論じたもので、著者のいう側面が主たるものとはいえないとおもう。そうした異論もあるが、今日の世界に必要な時宜にかない知的刺激にも満ちた提起である。(2021・1)