村山由佳『風よ あらしよ』(集英社、2020)

 実はこの作者にまったくなじみがなかったし、この作品を読むことになったのも意外な動機からであった。瀬戸内寂聴さんが亡くなり、マスコミで追悼特集などが企画され目に触れる機会が多かった。それらに触れる中で自分が瀬戸内さんの作品を一冊も読んでいないことに気がついた。そこで読んだのが『美は乱調にあり』である。

   1923年9月に起こった関東大震災の混乱の中で、甘粕憲兵大尉らによって無政府主義者大杉栄と妻の伊藤野枝、7歳の甥の3人が虐殺され、遺体が古井戸に投げ捨てられるという事件が起こった。この大杉と野枝を描いたのが、『美はー―――』である。福岡の極貧の家に生まれた野枝が資産家の伯父の援助で東京・上野高等女学校を卒業、親が取り決め式まですんだ結婚を振り捨てて同校英語教師の辻潤と結ばれ、2児をもうけるが、妻保子と愛人の神近市子のいる大杉栄と恋仲になる。嫉妬にかられた神近が大杉の首を刺すというスキャンダルもはさんで、28歳で野枝が殺されるまでに2人の間には5人のこどもが生まれる。野枝と前夫、大杉と3人の女性との複雑怪奇な関係を軸に、男女の愛憎を描いたのが、瀬戸内の作品である。ただ、もっぱら男と女の関係だけに的が当てられていて、作者らしいのだが、そこに物足りなさを感じた。そこで、見つけたのが村山の作品である。姜尚中が推薦文で「どんな恋愛小説もかなわない不滅の同志愛の物語」とのべているが、伊藤野枝の全生涯を軸に、大杉栄はじめ当時の無政府主義者たちとその運動、平塚らいてふをはじめとする「青鞜」に集まった女性解放運動の活動家たちとその運動を、たんねんに包括的に描き出した600ページを超える大作である。

    伊藤野枝という女性がとりわけきわだっているのは、当時の女性運動家の多くが比較的裕福な家庭、知識人の家庭などの出身者であるのにたいして、社会的地位も身分もない極貧の家に生まれ、口減らしのために里子にだされ、あちこちたらいまわしにされるなど文字通りどん底から、みずからの強烈な意思と向上心で這いあがってきた人だという事である。田舎じみ薄汚れた着物をきて、射るような目と野獣のようなどう猛ささえ感じさせるその容貌からして、他の女性たちとは異質である。彼女の性根の座った反体制の思想と感情は、その生い立ちそのものに根ざしている。彼女が大胆不敵な無政府主義者、大杉に魅かれるのも、大杉が、神近などインテリ女性をおしおのけて彼女に夢中になるのも、そこに根本的な理由がある。作者は、伊藤の生い立ちを克明に追うことによって、そのことを読者に納得させてくれる。

   本作のもう一つの特徴は、作者が恋愛小説を得意としてきたように、伊藤と大杉、あるいは伊藤と前夫の辻との関係など、男女の関係、愛憎について、特に女性の感情と心理の複雑で深い折りあいに至るまで、絶妙に描き出している事である。寂聴さんの作品もその点では秀でているのだが、こちらも負けてはいないと感じさせる。神近市子が、嫉妬に狂って大杉を殺傷するにいたるくだりなど、とてもすごい迫力とリアリティを感じさせる描写は他の追随を許さないのでは。

   さらに、この作品で特筆すべきは、当時の社会運動、とくに無政府主義者たちの運動を、それにたずさわった活動家の群像とともに見事に描き出していることである。権力による検挙、拘束がくりかえされ、大杉らが発行する刊行物が次々に発禁となって、資金が底をついていく。その中で、沢山の子どもを抱えた野枝と大杉一家が食べるものさえ事欠く窮状においやられるさまなどが、生々しく描き出される。そんななかで、みずからの思想と信条をつらぬいていく生きざまは、崇高とさえいえよう。

   ただ、野枝と大杉にぴったり身を添える筆者の姿勢からやむを得ない面はあるが、無政府主義とそれをかかげてたたかった人々を一面的に美化する結果になっているのではなかろうか。社会発展への科学的な展望と方針をもった革命運動ではなく、あらゆる権力を否定するアナーキズムには、無文別で無謀な反抗や道徳的堕落はさけられない。大杉が内務大臣の後藤新平に金をせびりに行く場面が出て来るが、そうした醜悪な側面が全体として見逃され、無政府主義とその運動が社会進歩の歴史に果たした否定的な役割がほとんど臥せられたままに終わっているのは残念だ。野枝のように本来驚嘆に値する非凡な女性を、結果的には社会進歩の逆流におしやってしまうところに歴史の悲劇がある。(2022・2)