辺見じゅん著『収容所から来た遺書』(文春文庫)

 1989年に初版が刊行されているが、このほど映画化が決まったとのことで文庫版が書店の平台に積まれていたので目にとめて読むことにした。著者は作家、歌人として著名な人だったが、2011年に亡くなっている。本書は第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞している。
 第二次大戦でソ連軍の捕虜となった日本人は約60万人、そのうち51万人余がシベリアに抑留され、7万人以上が極寒の地での過酷な強制労働で命を落としている。その多くが1950年までには釈放され帰還しているが、戦犯などに問われた2400人余が1956年の日ソ国交回復まで抑留された。最後まで残されたこの人たちの収容所生活を、帰還者一人ひとりを訪ねて取材し記録したのが、本書である。ソ連軍捕虜たちのシベリアでの労働の悲惨な様子はこれまでもよく耳にしてきた。そのおぞましく凄惨な実態を詳しくリアルに伝えるレポートかとおもって読みだしたらそうではない。過酷な労働やソ連軍の捕虜に対する非人間的な取り扱い、スパイや密告の強要などが描かれていないわけではない。しかし、それらは必要最小限に抑えられていて、多くの紙面がさかれるのは、収容所内で家族をおもい、祖国へ郷愁をよせながら、助け合い、はげましあい、人間的な絆をふかめていく男たちの友情と連帯である。
 満鉄調査部にいた山本幡男がその中心人物である。1908年生まれ,島根県隠岐郡に生まれ、松江中学を優秀な成績で卒業し東京外大でロシア語を学ぶが、卒業直前に日本共産党を弾圧した1928年の3・15事件に共産党シンパとして連座し退学処分をうけたという経歴を持つ。この山本の提唱で俳句の会、のちにアムール句会が結成され、収容所内でソ連軍の監視をくぐって句会が催される。初空や風南より南より 明けを待つ塀の高さや初仕事 これは1950年正月の句会で詠まれた句である。句会には将校も兵も区別なくそれぞれ号をもってつどい、山本が選句し、選評する。もちろんメモすることも記録することも厳しく禁じられているから、地面に文字を書き、句会が終わると消して、それぞれ記憶にとどめる。山本はこうした句会を主宰するとともに、堪能なロシア語を生かしてソ連側の新聞などから情報を仕入れ、帰国できる可能性が広がっていることを報せて、皆を励まし勇気づける。そうした活動から、山本は周囲の信頼と尊敬をあつめるようになっていく。
 しかし、山本は原因不明の病にかかり、病床に臥すようになる。それでも句会をつづけ、ダモイ(帰国)を信じて仲間を励まし続ける。やがて死期が迫るもとで山本は、母と妻、子供たちにあてて3通の遺書をしたためる。「お母さま!」「妻よ!」「子供らへ」である。文面は「到頭ハバロフスクの病院の一隅で遺書を書かなくてはならなくなった。鉛筆をとるのも涙! どうしてこの書が綴れよう!」で始まる。問題はこの遺書をどうやって日本の遺族に伝えるかである。メモも文書も固く禁じられている。残った男たちが分担して暗記し、帰国したところで文書にして遺族に渡すしかない。島根県の出身者など6人が分担、一字一句間違いのないよう暗記して何年も忘れないよう記憶する。1956年、鳩山内閣によるソ連との国交回復で、捕虜たちの帰国が実現する。舞鶴港に降り立った収容者たちは、それぞれ新しい人生へと再出発するが、山本の遺書を頭に納めた6人は、いまは埼玉県大宮に住む遺族のもとへ遺書を届けて初めて、新たな再出発となる。諸事情から最後の遺書が届けられたのは1962年であった。死と隣り合わせの収容所内での人間の温かい絆と尊厳を象徴する実話である。(2022・3)