垣根涼介『極楽征夷大将軍』(文芸春秋社、2023・5)

    第169回直木賞受賞作である。作者は、1966年生まれ、2000年に『午前3時のルースター』でサントリーミステリー大賞と読売賞を受賞、いらい吉川英治文学新人賞日本推理作家協会賞山本周五郎賞などを立て続けに受賞している売れっ子作家である。

    本書は室町幕府を開いた足利尊氏とその時代を描いた異色の作品である。足利尊氏と言えば、かつて戦前の皇国史観が支配した時代には、逆賊として憎むべき悪人の最たるものとして排撃され、その人間像や人格にまともにむきあう人は一般には存在しなかった。そのためもあって、戦後もこの人物の実像は多くの人にとって謎のままであったように思う。そこに目をつけ大胆に切り込んだだけでみあげたものである。しかし、それだけにとどまらない。

 というのは、本作が描く尊氏像が大方の意表を突くユニークなものであるからである。鎌倉幕府をほろぼし、後醍醐天皇建武の新政に逆らって室町幕府を起こした尊氏を、徹底的な能天気、極楽とんぼ、やる気なし、使命感無し、執着心無しの人物として描き切っているのである。尊氏は、もともと足利家の正妻の子ではなく庶子として生まれ、育てられるが、たまたま家を継ぐことになる。尊氏には、ずば抜けた才能をもち、実務能力にも優れ決断力もある弟の義直がおり、また。足利家の執事には高師直というこれまた優れた才能とともに武術にもたけた人物がいる。尊氏は、この二人に支えられ、あるいは一任してすべての事を運ぶ。どんなに危機的な局面でも、この二人の采配と判断にまかせて、自分はなにひとつ決断もしない。ただ人が良く親切で、私心がなく、相手がだれであれ親しく語り掛ける、そうした人柄は他に追随を許さない。そして、戦になるとそれが下につく武士たちの信望と尊敬の的となり、カリスマ的な崇拝を広げることにもなる。その結果として戦いを勝利に導く。これが、本作で描く尊氏像である。こうして、義直、師直におんぶに抱っこの尊氏が、波乱万丈の戦国の世を世間的には名将として生き抜いていく。この三者の奇妙奇天烈な人間関係とそのおりなすドラマが、滑稽味をともないつつ読者をひきつけ、面白く読ませてくれる。ここに、この作品の最大の持ち味があると言ってよいであろう。

 もちろん、政変に次ぐ政変という激動の世である。鎌倉幕府の北条執権一族、足利家はもとより、鎌倉幕府を叩き潰して天皇親政を断行しようとした後醍醐天皇とその配下の宮人や武人たち、さらに後醍醐に反旗を翻し室町幕府の開設に力を尽くす武将たちなど、数多くの人々が登場し、それぞれその舞台でその役を演じる多様な様相もまた,この作品ならではの魅力であろう。

 後半では、肝心の義直と師直との間に溝ができ、両者が対立し、それが国中の武将たちや宮中をまきこんで全国的な動乱に発展する。そして義直、師直ともに破滅の道をたどる。さて支えを失った尊氏はどうなるか? 作者は、征夷大将軍としての尊氏の大変身で作品を締めくくっている。

 歴史小説の例にもれず、ではこの作品が描いた尊氏像は史実に照らしてどうか、という問題が残る。最初に述べたような経緯から無縁でなかった筆者には、判断するすべがない。作者が依拠している『太平記』はずいぶん昔読んだことがあるが、私の記憶に残る範囲では、この作品のような尊氏像は思いもよらなかったが、果たしてどうか? もちろん作者が最後に参考文献を挙げているように、専門的な研究の成果が反映されているのではあろう。いささか一面的な誇張があるようにも思えるのだが、筆者にはそれを主張する資格は無い。(2023・10)