楊双子『台湾漫遊鉄道の二人』(三浦裕子訳、中央公論社、2023、4)

 台湾ではこのところ1895年から1945年まで続いた日本統治時代に人々の関心が集まっているそうだ。一見、不思議に思うかもしれないが、中国の圧力が強まる中で、みずからの歴史や文化を大切にしたいとの思いが高まっているのだそうだ。半世紀続いた日本統治時代は、台湾人にとってよかれあしかれ忘れることのできない記憶となっているのだ。この小説は、そうした時代的背景のもとに、昭和13~14年に台湾を旅行した青山千鶴子という日本人作家と通訳を務めた台湾人の若い女性、王千鶴との台湾列島食べ歩きの記録という形をとっている。

 青山千鶴子は、周囲から攻め立てられる結婚話を逃れて、映画化されて話題になっている自作の宣伝、説明という名目による台湾からの招待に応じる形で、台湾に滞在、台湾縦断鉄道などで各地を回り、貪欲に食べまくる。通訳の千鶴は若いが頭もよく、知識も豊富、気配りも抜群で、千鶴子の貪欲な食欲にこたえて各地の料理へ案内し、自分でも食べまくる。この作品は、日本人作家と台湾人通訳とのたべまくりの一覧ともいえる。食通でもなく、台湾料理のごく初歩的な知識にも欠ける筆者には、その内容を紹介することは不可能である。ただ、台湾にはもともと現住民がおり、中国の色んな地方から渡ったいわゆる本島人がおり、さらに日本人がこれに加わるため、文化的にはすこぶる重層的多面的であって、料理もきわめて多種多様、豊富な歴史と蓄積がある。これはおどろくべきことである。興味のある方には一読を勧めたい。

 青山千鶴子は、通訳の千鶴が気に入り、親しみを増し、かけがいのない親友と感じるようになっていく。千鶴も千鶴子の要請に応じてかいがいしく働き、ときに心からの親密な感情を表に出すこともあるのだが、多くの場合何か能面をかぶっているようで、千鶴子にとっていまひとつ物足りなさを感じさせる。なぜなのかわからないが、千鶴子の側が親しみを募らせれば募らせるほど、千鶴の能面の度合いも増してく。やがて千鶴は千鶴子の通訳の仕事そのものを辞退するようになる。なぜか、千鶴子が、いたたまれなくなって台中の住まいのある日本人の居留地から本島人(台湾人)の住む地域へ足を運び千鶴を訪ねる。久しぶりに再開した千鶴の口から出たのは次のような言葉であった。「青山さんが大事にしているのは、青山さんの保護を必要とする、ものわかりの良い本島人の通訳です。でもそれは、本当の王千鶴ではない、本当の私ではないのです。こんなことで、青山千鶴子と王千鶴は本当の友達だと言えるでしょうか-----」 千鶴の後を務める通訳、男性の三島からも、千鶴子は「この世界で、独りよがりの善意ほど、はた迷惑なものはございません」という言葉を投げかけられる。植民地の支配者と支配される人々、天皇崇拝から日本語教育や神社まで押し付けられ民族としてのアイデンティティ-すら否定されかねない被支配者との間に、本当の友情など育つはずがないではないか、という根本的な問題をつきつけられたのである。青山千鶴子は、善意とはいえ、自分の傲慢さとおごりがどんなに相手を傷つけていたかに初めて気づかされる。食べ物漫遊記という姿をとったこの作品には、日本の植民地支配の根幹にかかわるこうした問題が内在していたのである。

 ところでこの作品には、その成立そのものにかかわって幾重ものフィクションが仕組まれていることも見逃せない。作品の冒頭に「昭和29年『台湾漫遊記』初版まえがき」なる一文があって、この作品はもともと1954年に日本の作家、青山千鶴子が日本語で日本で出版し、1970年に青山の令嬢、青山洋子が『私と千鶴の台湾漫遊記』として再出版、洋子から連絡を受けた千鶴の娘、呉正美がすでに母が翻訳を手掛けていたのを完成させて中国語で出版したのが1990年だと、正美が本書の「編者あとがき」で記している。しかし、これらは全て虚構で、作品は1984年生まれの楊双子(妹の楊若暉--30歳で死亡――と姉の楊若慈の共同ペンネーム)の中国語での書下ろしである(日本語の訳者は三浦裕子)。これは、巧妙なトリックなのでが、出版された際に史実と混同され一波乱あったようである。こんな経過も、この作品の興を膨らませている(2023・8)