斎藤幸平『大洪水の前に――マルクスと惑星の物質代謝』(堀の内出版、2019・4)

  この著者の新刊書『人新世の「資本論」』(集英社新書)が、「朝日」書評欄の週間ベストテン3位になるなど好評で、大型書店の一番人目につく平台に積まれるという異例の事態が起こっている。異常気象による地球環境の破壊から人類を救うには資本主義という制度を廃棄して新しい社会制度(著者はエコ社会主義という)を作るほかない、そのためにはマルクスが晩年に到達した理論に学ばなければならないというのが、本書の内容だけに時代の大きな変貌を感じないわけにいかない。1991年にソ連が崩壊したとき、共産主義は敗北し、資本主義が勝利したという世界的規模のキャンペーンが席巻したのを思えば、まさに隔世の感である。しかも、著者は30歳代の若者である。この新書の理論的基盤となった学術的研究の成果をまとめたのが、表題の著作である。

 ソ連崩壊後、西欧のマルクス研究者の中にマルクスは生産力第一主義で、エコロジーとは無縁だ、「エコロジーは、マルクス主義の盲点」だといった論調があらわれた。地球温暖化による破局的事態からの脱却という人類史的課題が浮上するなかで、マルクス主義を時代遅れとして捨て去ろうとするものに他ならない。著者は、マルクスエンゲルスの公刊された著作だけでなく草稿やメモ、引用ノートをふくむすべての遺稿をまとめた新マルクス・エンゲルス全集(新メガ)の研究、とくに晩年マルクスが取り組んだ化学者のリービヒなど自然科学書からの抜粋を丹念に追うことによって、マルクスの理論を単純な成長史観、生産力第一主義と見るのは根本的な誤りであることを明確にする。それどころか、自然と社会の「物質代謝」とその亀裂、攪乱という人類史的、地球史的な観点から、資本主義のもとでの資本とその利潤第一主義が、環境や資源、さらに自然そのものに取り返しのつかない破壊と変容がもたらすことに先駆的な警鐘を鳴らしているという。そのことの論理的実証的究明に、本書の最大の特徴と理論的貢献がある。

 もちろん、マルクスが『資本論』で人間の労働を人間と自然との「物質代謝」という角度から論じていることはこれまでも、多くの人に注目されてきた。また、真面目にマルクスの文献を研究する人たちからは、マルクスエンゲルスが、資本主義のあくなき利潤追求が資源の枯渇や土地の疲弊、荒廃をもたらすことを指摘し、警告的論及をしていることの意義についても論じてきた。しかしそれらは、そうした論及が存在するといった指摘の範囲をあまり出なかった。本書の著者は、マルクスのそれらの論及を、『資本論』をはじめとするマルクス生涯にわたる理論的探求の基軸の一つとして位置づけることによって、これまでのマルクス研究を超える新しい視点と視野を提供しているといってよいであろう。

   マルクが若いときに、利潤、利子、地代を言った概念を中心に据えるイギリス経済学を学ぶなかで、労働と人間の「疎外」という観点から、資本主義のもとでの人間と外界、自然との関係をとらえ返した時期がある。労働によって作り出されるものが、そして労働そのものが、さらに人間そのものが、労働者、人間からよそよそしく疎遠になり、労働者、人間の外から労働者に敵対者としておそいかかるようになる、という議論である。これは、人間がつくり出した神が人間を支配するというフォイエルバッハ唯物論の影響のもとでの議論であるが、ここには、人間の労働が働きかけ、変容させる外界、自然が、疎外者として人間に敵対するという意味で、人間と自然の「物質代謝」とその亀裂、攪乱という『資本論』の観点につながる原点をみることができる。

   さらに、新MEGAの研究によって、未完に終わった『資本論』には収まらなかったマルクスエコロジーにかかわる問題意識、あるいは研究を、主としてマルクスの自然科学研究をしめす抜粋ノートをたどることによって明らかにしていることは特筆に値する。自然に存在する無機物が植物の生育に欠かせないことを発見しその角度から農業による「自然の略奪」を説いたリービヒや、気象変動の生物への影響を解明したフォスターの議論へのマルクスの注目などは、その代表的な例である。新MEGAに直接接する機会のない筆者にとっては得難い知見を与えられ、感謝する次第である。また自然科学研究と「物質代謝」論でのマルクスエンゲルスとの違いについての指摘も、なるほどと納得できるところが多い。環境問題が焦眉の課題となっている時代にふさわしい、有意義な知的興味に富んだ著作である。(2021・2)