カズオ イシグロ『クララとお日さま』(土屋正雄訳、早川書房、2021・3)

      作者が2017年にノーベル賞を受賞後初めて公にした話題の長編小説である。前作『私を離さないで』では、人間の臓器移植用に人工的に作りだされたクローン少年少女たちの残酷で悲しい生きざまを描き出した。一見したところ、普通の子どもたちと何ら変わらない生活をいとなむクローンには親もいなければ、将来の希望も夢もない。必要とする人間に臓器を提供するだけの目的で生存を許されている。万が一にもその境遇から抜け出して普通の子どもと同じように生きる可能性があるかもしれない、そんなはかない望みもことごとく打ち砕かれる、という非情な物語であった。今回の作の主人公クララはクローン人間でもなく、人工知能を搭載した完全なロボット少女である。それも、最新型ではなく一世代遅れた旧式ロボットである。しかし、観察力と理解力に優れ、豊かな共感力と向上心をもつ。販売店のショウウインドウに並べられていたのを、ジョジ―という病弱な少女に気に入られて買われ、そのAF(人工親友)として一緒に暮らすことになる。この二人と家族のごく日常的な交流がこの作品の主なテーマである。

 クララはロボットであるから、幼児からの生活体験も成育歴もない。ショウウインドウから眺める街の様子、ジョジーと暮らすことになる田舎の家での体験や田園風景などすべてが初めてのまったく新しい体験である。クララはそれらを新鮮な感動をもってうけとめ記憶し、ジョジーの期待に応えるようひたすらけなげな努力をする。ジョジーの話し相手になること、ジョジーに何か不安なことが生じたら、日中働きに出ている母親に直ちに連絡することが、彼女の任務である。感情も豊かなクララには、欲得も打算も、嫉妬ややつかみといったよこしまな心も一切存在しない。ただただジョジーに親友として気に入られ、その要望に応え、成長を助けることにすべての力を注ぐ。

 ジョジーの母は離婚しており、家には女中さんが一人いる。ジョジーの家から結構離れたところに隣の家があり、そこに住むリックという少年は、ジョジーの唯一の幼馴染で、将来を共にしようと固く誓い合っている仲である。これらの家族、友人との交わり、交流も、クララの大事なしごとになり、それをこなすためにけなげな努力もする。たとえば、病弱なジョジーのためにある日曜日、近くにあるモーガンの滝を見にピクニックが計画され、クララも同行することになるが、当日朝、ジョジーの体調が思わしくなく行けなくなる。そこでジョジーの母親はクララだけを連れて計画を実行する。クララは、モーガンの滝を見学して滝のまえでジョジーの母親と二人だけの時間をすごす。途中で出会った怖そうな雄牛や羊とともに、クララにとって新鮮で感動的な体験であった。またリックが次々に描く絵にジョジーがふきだしを書き込むという遊びに、同席して時のたつのも忘れるといったことも、クララにとって楽しい体験であった。

 そんなとりとめもない日々がつづくのだが、ジョジーの健康は悪化の一途をたどり、母や周囲が来るべき日の到来を覚悟せざるを得ない状況になる。クララは、自分の活力が太陽、お日さまのエネルギーに依存していることから、お日さまの力に絶大な信頼をおいていて、ジョジーの健康の回復をひたすらお日さまに祈る。はたしてクララの願いが届いたのか、ジョジーは奇跡的に健康をとりもどす。元気になったジョジーは、母の願い通り大学受験をめざすことになり、交友関係も広がっていく。ところがその結果、ジョジーにとっても母親にとってもクララはしだいに不要になっていく。クララは終日物置部屋でひとり過ごすことが多くなる。そしてジョジーが大学に入学して家を離れ、リックも自分の道を歩き出すにおよんで、クララは使用済みとなりあっさりと捨てられる。廃物置き場で一人、幸せだった過去の思い出にひたるクララのもとを訪れるのは、かつて自分を商品として売りに出した店の店長婦人であった。

 こんなストーリーなのだが、現代社会で圧倒的多数の人々はひたむきに生きて働き続け、報われないまま、不要になったら使い捨てにされる、そんな生涯をおくらされている。読者をクララへのかぎりない共感に誘わずにはおかないのでは、そのような現実が支配しているからではないか。(2021・6)