アネッテ・ヘス『レストラン「ドイツ亭」』(森本薫訳、河出書房新社、2021・1)

 この作品は、1963年にドイツで開かれたいわゆるアウシュヴィッツ裁判をテーマにしている。

 ドイツでは、第二次世界大戦後連合軍によるニュールンベルク裁判でナチス戦争犯罪は裁かれたが、ドイツ人の多くがナチス党員になるなどヒトラーの統治に積極的に加担した事実があることから、戦後ナチスの犯罪は棚上げにされ、できるだけ触れないようにする風潮が強くあった。むしろ、アデナウアー政権など、旧ナチ党員を積極的に登用して戦後復興に役立てようとする政策さえとってきた。そのため、ドイツ国民、とりわけ若者たちは、ナチスの犯罪について深く知らずに、あるいは知っていても棚に上げて、それと直接向き合うことなく生きていた。それだけに、ユダヤ人大量虐殺の罪を問う1961年のいわゆるアイヒマン裁判と、それにつづく63年のアウシュヴィッツ裁判(ポーランドアウシュヴィッツ収容所での何十万人ものユダヤ人殺害の事実を明らかにし、その執行者を裁いた)は、多くのドイツ人、とりわけ若い世代にとって大きな衝撃であった。おりしも、アメリカによるベトナム侵略戦争にたいしてドイツでも若い世代を中心に反戦運動が広がっていただけに、この裁判を機にドイツ人、ドイツ青年自身がナチスへの積極的に加担した自国の歴史にきちんとむきあうことが求められた。若い世代にとってそのことは同時に、自分たちの両親とその世代がナチスへ積極的に協力したにもかかわらず、その事実を棚上げしてひた隠しにしてきたことにたいする道義的責任を問うという問題でもあった。そのことは、それぞれの家庭において両親と子供たちの間に深い亀裂を生むという結果をも避けられなかった。この点でドイツは、同じ問題をかかえながら、どういうわけかなんとなくスルーしてきた日本とは根本な違いがある。

 本作は、フランクフルトのある場末のつましいレストラン「ドイツ亭」を舞台に、この店を経営する両親、ルードウィヒとユーディと二人の娘を中心に展開される。主人公のエーファは二女で、二十歳になる。姉はアネグレットといって、看護師で、病院では新生児の担当している。エーファは、ポーランド語とドイツ語の通訳を仕事にしており、ある事務所に勤めている。彼女には、通信販売会社を経営する父の下で働くユルゲンという恋人がいて、格の違う家庭に入って幸せな結婚死活を生活をおくれるかどうか、不安をもいだいている。とはいえ、一家はごくごく普通の家庭で、両親を中心にさしたる波風もたたずに平穏囲に仲睦まじく暮らしている。

 ところが、アウシュヴィッツ裁判がフランクフルトではじまると、事態は一変する。たまたまエーファがポーランド語を話すことから、アウシュヴィッツの所在地であるポーラン人の証人がおおいこの裁判の通訳を依頼される。エーファ―にとって、裁判の法廷に入ることも初めてなら、そこでユダヤ人を拷問しガス室に送り込んで大量に殺害するおぞましい犯罪についての証言を聞くのもまったくはじめてである。自分の父や母に当たる世代の人たちが、こんな犯罪に手を染めていたばかりか、その事実をひた隠しにして平和を装って生き続けてきたという事実に、エーファは驚きとともに、強い衝撃をうけ、その歴史にまともに向き合おうとする。エーファのそのような姿勢は、できるだけ裁判から身を引きかかわらないようにと務める恋人や両親との間に溝を作りだし、広げていく。そして、裁判が進行するなかで、その断裂はエーファの家庭そのものをのっぴきならない状況に追い込んでいく。

 過去の重い歴史的事実が、一庶民の平凡で穏やかな生活にもたらす悲運を、当事者たちがどう受け止め、乗り越えていくのか、逃れることのできない難題を問いかけるのがこの作品である。(2021・7)