飯島和一『星夜航行』(上下、新潮文庫、2021)

  島原の乱を描いた『出星前夜』(2008年)で大佛次郎賞対馬の流人をめぐる大スぺクタクル『愚賓童子の島』(2016年)で司馬遼太郎賞を受賞しているこの作家の作品には、これまでいたく感服してきた。史料の徹底的な読み込みをふまえて克明に描き出す歴史ドラマは並の出来ではない。18年に刊行された本作がこのほど文庫化されたのを機会に読んだのだが、やはり期待にはずれなかった。なにしろ作品を仕上げるのに9年を要したというのだから、このごろ売れっ子の薄っぺらな作品とはできのちがう、後世に残るあろう本格的な歴史的大作である。

 ときは16世紀末、徳川家康の息子で岡崎城主の徳川三郎信康につきしたがう小姓に沢瀬甚五郎なる人物がいた。家康の正妻だが今川家の血筋をひく母をもつ信康は、母とともに家康への謀反を疑われ若くして切腹させられる。小姓頭で甚五郎が尊敬する石川修理亮も家康への抗議の意を込めて主人の後を追って自害する。進退きわまった甚五郎は出奔し、家康に追われる身となる。駿河の山中にある禅寺に潜んだ甚五郎は、堺にもぐりこみ薩摩にのがれる。そして、堺で貿易商に巡りあったのを機縁に、朝鮮やルソンとの交易に携わる商人になる。おりしも、織田信長による天下統一と明智光秀の乱を経て豊臣秀吉の時代をむかえ、思いあがって誇大妄想にとりつかれた秀吉による朝鮮出兵が始まる。この波乱に富んだ激動の時代を、沢瀬甚五郎の活躍を軸に無数ともいえる人々を登場させて描き出すという壮大なスペクタルである。

 前半は、出奔して殺人の罪まで着せられて犯罪者として徳川家に追われる甚五郎の足取りをたどる。織田と組んで今川を倒した家康と家康の正妻とその息子、信康との確執、それらをつうじて俯瞰されるこの時代の相貌が、甚五郎の目を通じてスリリングに躍動的にえがかれる。ルソンやカンボジアマカオなどと行き来する堺商人たちのインタナショナルな活気にあふれる活躍や、薩摩島津家とそのもとでの商人たちの海外との交易など、鎖国以前の日本の海外に開かれた姿が生き生きと描き出される。 

 後半は秀吉の朝鮮出兵が中心になる。天下を取ってみすからの力におもいあがる秀吉は、国内で諸侯を服従させ、太閤検地によって統一国家へと国内を整備してきた同じ次元で、朝鮮王朝を服属させ、朝鮮を通路として明国に攻め込み、北京を占領して、そこに秀吉の本拠をおく、という途方もない計画を実行にうつす。そのために朝鮮との窓口になっていた対馬の宗家にたいして、朝鮮王朝を秀吉に服従させる折衝の任務を与える。歴史もあり誇りも高く中国に冊封する朝鮮王朝がとうてい受け容れるはずのない無理難題に困り果てた宗智義が、秀吉の天下統一へのお祝いの使節派遣を朝鮮にたのみ、これを服属使節団と偽って秀吉に呈示したことから、事態はこじれにこじれていく。九州の名護屋に出撃本拠を定めた秀吉は、九州を中心に諸国大名に出兵を命じるが、これには武士だけでなく、農民、漁民を根こそぎ動員し、兵糧として大量の米穀を収奪することを意味していた。

    小西行長加藤清正はじめ10万を超える部隊を何百艘もの船で釜山におくり、上陸して抵抗する朝鮮軍民を討伐しながら三方に分かれて北上し、京城から平城まで占領する。これに対して朝鮮王朝は、宗主国の明に援軍を要請し、10万を超す明軍が朝鮮におもむき、日本軍とたたかうだけでなく、住民を略奪し横暴のかぎりを尽くす。朝鮮は全土にわたって踏みにじられ、これにたいする抵抗が義兵となって全土にひろがる。秀吉軍は兵站をいたるところで断たれ、窮地に追い込まれる。そのうえ、陳舜臣の水軍が海から秀吉軍の糧道を断つ。こうして、二度にわたる朝鮮出兵は、日本と朝鮮の両国民に多大な犠牲と苦しみをおしつけただけで、双方に何一つ益のないまま秀吉の死によって終焉する。

   この間、甚五郎は小西軍の要請で二度にわたって、兵糧を届けるためみずから船に乗る。そして、一度は朝鮮水軍に追われ、もう一度は、陸にあがって拠城まで食料などを運ぶ途中で朝鮮義兵に襲われる。甚五郎の辿る数奇な運命がこの作品の終末を彩る。(2021・11)