川上未映子『夏物語』(文芸春秋社、2019)

 

 「朝日」の書評欄で同じ作家の新作『黄色い家』が紹介されていて興味を魅かれ図書館から借り出そうとしたら所蔵していないとのこと。作者についてネットで調べてみると、表題の前作が既に十数カ国で翻訳、出版されているという。それならまずこちらを読んでみようかと、借りだして目を通した。作者は1976年、大阪生まれで、08年『乳と卵』で芥川賞を受賞している。

 主人公の夏目夏子は、大阪の下町でホステスとして働く母のもとで姉の巻子とともに貧しい家庭で育った。現在38歳、作家になって東京で一人暮らしをしている。姉には緑子という娘がいて夏子との交流もある。夏子には、かつて長年付き合った恋人もいたのだが、体質的にセックスができない、というか拒絶反応をする。そのため彼氏との関係も破綻してし、ずっとひとりで生きるつもりできた。しかし、いつしか、自分の子どもが欲しい、というより自分の子どもに出会いたい、という願望を抱くようになる。

    恋愛も結婚もあきらめている夏子にとって、考えらえられるのは提供精子による人工授精しかない。そこで、精子を提供する組織や人間をネットで検索、その世界にはいりこんでいく。そこには様々な団体や個人が存在し、精子の保存、病気などの検査、提供者の選択と秘匿、あるいは、こどもが父親を知りたいと望んだ際に対応できるよう、精子提供者の所在や記録を残しておくか、それとも完全に秘匿して記録などをいっさい処分するかなどなどのいろいろな問題の所在もわかってくる。

 同時に、匿名による精子の提供を受けて人工授精で生まれ育った人が、自分の出生の秘密を知った時の衝撃と、自分が何者かという深刻な悩み、あるいは、自分の父は誰かを探す、絶望的な努力などについても知るようになる。そして、そうした悩みを共有する人たちの組織や、専門家の援助機関の存在も知るようになる。そこで、知り合ったのが、逢沢潤であり、善百合子である。逢沢は、夏子と同世代で医師だが、自分の本当の父親が誰かを突き止めない限り、自分が何者か、なぜ存在するのかさえ分からなくなると深刻に悩んでいる。善は、こどものときに実の父ではない母の夫による性的虐待を受けてきたという悲惨な過去をももち、精子提供による人工授精にとどまらず、子どもを生むことそれ自体が、親たちの「身勝手な賭けだ」、生まれてくる子どもの意思を無視した大人の一方的なエゴイズム、一方的な願望の押し付けだという、きびしい信念をいだいている。夏子は、逢沢や善と知り合い、かれらの参加する組織にも出入りするようになり、提供精子による人工授精によってでも子どもがほしいという自分の願望が、自分の一方的なエゴであり、思い込みであって、とんでもない思い違いであるのではないかと、悩むようになる。

 夏子は、逢沢とメールの交換や電話による連絡にとどまらず、実際に会って話すようになっていく。そして次第に、逢沢にたいして親しみにとどまらぬ、恋ごころを抱くようになっていく。だが、逢沢には、善百合子という相手がおり、同じ悩みをかかえる者同士の長い付き合いもある。夏子が逢沢にこころをよせても、セックスはダメという夏子の側の制約もある。はたして、夏子と逢沢の関係はどうなっていくのか? 

   そんなミステリアスな展開もふくめて、愛とは何か、セックスとは何か、夫婦とは? さらに生とは何かという根源的な問題にまで迫っていく。まだ若い作家でこの一作を読んだだけだが、現代の新しい問題に大胆にきりこみ、多面的に深く追求していく姿勢と感性に、好感が持て、これからの活躍を期待できる人だとの感を強くした。(2023・3)