アンソニー・ホロヴィッツ『カササギ殺人事件』(創元推理文庫、2018・9)

 巻末の解説で川出正樹が次のように書いている。「アンソニーホロヴィッツカササギ殺人事件』は、まごうかたなき傑作だ。2018年の時点で、二十一世紀に書かれ翻訳された謎解きミステリの最高峰といっても過言ではない」と。川出があげるその理由の第一は、「フーダニット(犯人あて)としての完成度が極めて高いためだ。プロットは複雑精緻で、構成は緻密かつ堅固。容疑者は縺れ合い、様々な動機が見え隠れしつつストーリーは二転三転する。個性豊かな探偵役が、丹念に描かれた手掛かりと目くらましとを選り分けて」云々。第二は、『アガサ・クリスティ作品のオマージュとして完璧な仕上がりを見せているためだ。舞台は一九五〇年代半ばのイングランド。“渓谷の森”と湖を有する豪壮な貴族の屋敷を中心に由緒ある牧師館、パブや骨董品店などが点在する、まさに絵に描いたような美しき英国の田舎の小村でたて続けに起きた二つの死。葬儀の場に予兆のように現れたカササギを目にした老墓堀人の脳裏を、子どもの頃に教わった数え唄がよぎる。エルキュール・ポワロを彷彿させる名探偵アティカス・ピュントは、閉ざされた共同体の裏庭に静かに積もった嘘とごまかしの下から埋もれた秘密を掘り起す」。

 長くなったが、あえて紹介したのは、この作品の特質をうまくまとめ上げていると感じたからである。舞台は、サマセット州にあるパイ屋敷で不慮の死をとげた家政婦の葬儀の情景から始まる。鍵のかかった屋敷の階段の下に倒れているのを発見された彼女は、たまたま掃除機のコードに脚をひっかけて墜落したのか、それとも‐‐‐‐‐。その死は、小さな村に衝撃を走らせただけでなく、そこに住む人びとの関係に少しずつひびを入れていく。しかもつづいて館の主が思いもよらぬ残虐なやり方で殺害される。脳腫瘍で余命あとわずかという名探偵アティカス・ピュントは、現地を訪れあらゆる状況をつぶさに観察しながら推理を働かせる。文字通りクリスティを彷彿させる筆遣いである。

 これだけでもミステリとしてじゅうぶん堪能できる力作なのだが、謎解きが大詰めを迎えなお決着をみないまま、下巻にはいる。そこでは、話は一転して、『カササギ殺人事件』の筆者であるアレン・コーンウェイという作家を担当する編集者であるわたしが登場する。アレンは「アティスカ・ビュント・シリーズ」で人気の絶頂にある。しかし、彼も実は、医者から癌で余命わずかと告げられている。わたしは、アレン・コンウェイの最新作『カササギ殺人事件』の原稿を編集長から渡される。そして、その原稿に肝心の最終章が欠落しているのを発見する。作者が生涯の最後となる作品を書き上げずに編集者に手渡すことはあり得ない。だとすると、最終章はどこでいかなる理由で誰によって欠落させられたのか? これが本書下巻の最大の謎解きとなる。探偵役はもちろん、アティスカ・ピュントではなく、女性編集者であるわたし自身である。

 このように、本作には二つのミステリがいわば「入れ子」になっているのである。そして、この二つのミステリがどこでどうつながるのかが、もうひとつの謎解きとなって読者の迫るのである。これは斬新な意表を突く構成であり、このように複雑な構成の作品を緻密に仕上げているところに、作者のなみなみならぬ力量をうかがわせる。ちなみにこの作者は、『女王陛下のスパイ アレックス!』シリーズがベストセラーになるなど現代イギリスを代表するヤング・アダルト作家であるという。なお、カササギ(magpie)には、鳥のカササギの他に、おしゃべりな人、何でも集めたがる人、黒白斑模様といった意味がある。(2019・6)

 

司馬遼太郎『世に棲む日日』(1~4巻、文春文庫)

 坂本龍馬を描いた『竜馬がゆく』、大村益次郎の生涯をとりあげた『花神』を読んだ以上どうしても避けて通るわけにいかないのが、吉田松陰高杉晋作を主人公にしたこの作品である。表題は、28歳の若さで生涯をおえた晋作の辞世の句「おもしろき こともなき世を おもしろく」に、最期をみとった望東尼が付け足した「すみなすものは こころなりけり」に由来するという。

 吉田松陰は、1853年、ぺりーが率いてきた米艦隊に単身のりこみ、国禁を犯してアメリカへの渡航を願い出るが、断られ、幕府に捉えられて、獄舎につながれるも、松下村塾を通じて多くの若者に精神的、思想的感化を及ぼし、その中から高杉晋作はじめ、幕末、維新の変革をになう多くの志士を輩出させた。その尊王攘夷・倒幕の思想は、長州藩をして時代の先端を走る先覚者の役割をになわせるうえで、決定的ともいえる力を発揮した。そのため、戦前の支配層によって「国体」思想の権化のように喧伝され、戦後はあまり顧みる人もいなくなったようにおもう。幕末・維新に活躍した人間を多数描いてきた作者も、松陰には筆を染めたことがなく、この作品ではじめて向きあったようである。松陰にも松下村塾にもまともにむきあったことのない筆者のばあい、その生い立ちから、各地をまわる修行、勉学や、松下村塾の実相について、つぶさに知るのは本作品を通じて初めてである。それだけに、その印象は強烈というほかない。

 貧しい下級武士の家に生まれた松陰は、叔父の玉木文之進という過激な保守思想家から尋常ならざるきびしい教育をうけ、一切の私心を捨てて大義につくす純真・過激な青年に成長する。江戸に出て佐久間象山はじめ当時の秀でた知識人に学ぶとともに、脱藩して東北、特に水戸へ赴き、尊王大義をかかげる水戸学を学び、さらに国学へとすすみ、そのなかで尊王攘夷思想を研ぎ澄ましていく。それは、欧米の外圧に屈せず、一君万民のもとで国民の力を結集し国の独立と発展を展望する革命思想であった。安政の大獄で捕らわれの身として再度江戸に送られ、29歳で刑死するまでの生涯はごくごく短い。しかし、その人柄と思想の及ぼした影響は計り知れない。作者は、松陰を「思想の人」、「思想に殉じた人」として描いている。

 藩の上士の家に生まれながらこの松陰を師と仰ぎ、その思想を実践に移し、革命家として生きたのが高杉晋作である。攘夷を実践するために、イギリスの公使館に忍び込んでこれを焼き討ちする挙に出るなど、その挙動は極端に走り、藩の高級官吏の子弟としては、異例の風雲児である。やがて、蛤ご門の変で朝敵とされ幕府による長州征伐がおこなわれるとともに、下関を通る外国艦船を砲撃した報復として米英仏オランダの四か国による馬関戦争に直面する。ここで晋作の革命家、戦略家としての真価が発揮される。その一つが、奇兵隊の創設である。身分階級の違いを超えて結束する軍隊の結成は、当時の封建社会では奇想天外というべき壮挙であり、いわば国民軍に道を開いたものと言えよう。米英仏オランダ軍の攻撃で甚大な被害を出した藩の代表として四国と講話交渉でわたりあう。  

 同時に、たった一隻の小型軍艦を率いて夜間、大鑑を連ねる幕府海軍にたちむかい、これを撃破するなど、文字通り暴れ放題の活躍である。しかも、長州藩の勝利が確実になると、藩の権力を握るのではなく、さっと身をかわして単身、イギリスへの渡航、留学を企て、長崎のイギリス商人グラバーに交渉するなど、日本の将来を見越した大胆な行動に出る。まさに破格な行動力をいかんなく発揮するのである。

 残念ながら、肺結核に犯されて明治維新を目の前に生涯を閉じるが、これほどのスケールの大きな人物は、土佐の竜馬くらいしかみあたらない。ちなみに後に維新政府の中核を担う伊藤博文井上聞多などは、当時、晋作の足元にも及ばぬ存在であった。「晋作は思想的体質でなく、直観力の優れた現実家なのである」というのが、作者の晋作観である。(2019・5)

 

岡田恵美子『言葉の国イランと私』(平凡社、2019・3)

 著者は、東京外国語大学教授を経て、現在、日本イラン文化交流協会会長。ペルシャ語ペルシャ文学の専門家で、1932年生まれというから現在86歳くらいか。

 1958年に東京日本橋で開かれた「イラク・イラン発掘展」を訪れた著者は、そこで砂漠の砂に描かれたカンナ屑を散らしたような不思議な文字に出会う。たまたまそこに居合わせたのが考古学者の増田精一氏で、「あれはペルシャ文字だよ」「日本ではまだ誰も読める人はいない」との説明をうける。当時すでに中学校の国語の教師を務めて居た岡田は、これを機にペルシャ語ペルシャ文化に興味をいだくようになり、増田氏や騎馬民族説で著名な考古学者の江上波夫氏らの援助も受けて、ペルシャ語習得に挑戦する。やがてイランへの留学を志してあれこれ努力した結果、直接イラン国王へ手紙を書く。戦後間もないころで、日本人が海外へ出ることがまだ極めてまれな時代である。幸い、手紙はイラン国王の目に留まり、イランとしても初めての女性の国費留学生として、招聘される。1963年のことである。こうして、まったくなじみのないイスラム国に単身のりこみ、テヘラン大学で4年間の留学生活を送る。その経緯が、本書の前半をしめるが、これが大変興味深く、面白く読める。

 当時の日本人にとって、イランはなじみの薄い国、イスラム圏にそくするまったく未知の国である。もちろんペルシャが古代から長い歴史と伝統をもち、その文化の一端が日本に伝わり、奈良時代に建てられた正倉院に保管されていることは周知のところである。しかし、戦後、この国と日本の交流は、ごくごく少数の人びとにかぎられ、国民の目がこの国にむけられるのは、日本が1960年代の高度経済成長期をむかえ、イランから石油資源が大量に輸入されるようになってからであった。そんな時代に、30歳を過ぎた一介の中学校の女教師が、何のつても知己もいないこの国にひとりでのりこむのだから、冒険に満ちたその一歩一歩が、読者の強い関心をひかないはずがない。その旺盛な好奇心と、勇気、決断力がどこから由来するのか、著者は「自分は誰か」を問うてやまなかった自らの幼少時にまでさかのぼって説明してくれる。もちろん、本人の特異な個性もあろう。同時に、それを許し、応援した両親や周囲の人たちにも、なみなみならぬ知性と寛容、人間の自由を本当の意味で尊重する民度の高さを感じさせずにおかない。

 留学先のテヘラン大学での生活も興味深い。女性に初めて門戸を開いたテヘラン大学の同級生で女性は、岡田一人である。ペルシャ古典文学の講義は、「まだ明けやらぬ空のもと 勇者は重き武具をつけ 背にはあまたの矢を負いて 小山とまごう馬に乗る」等、詩の朗読で始まる。イランは、詩の国、言葉の国である。イラン人は、よくしゃべる。そして日常会話の中で、古代からの詩がひんぱんに引用される。おしゃべりなイラン人は、大家族で暮らし、家族、友人を大切にし、相手を傷つけないよう細やかな気配りをする人たちである。

 4年間のテヘランでの勉学を終えた岡田は、女性ではじめての学位を取得して帰国する。おりしも高度経済成長期でイランとの経済関係も活発になり、ペルシャ語の需要もおびただしく、岡田は、各界から引っ張りだこになる。大学にペルシャ講座が開設されると、岡田はそこへ招請される。こうして著者は、日本におけるペルシャ語ペルシャ文学研究の草分けとして、今日に至る。本書の後半は、イラン人の衣食住について、また、豊かなペルシャ文学、文献からの箴言の紹介となっている。「心は憎しみを生まない。憎しみを生むのはいつも言葉だ』「古い楽器でも新しい歌は弾ける」等など。(2019・5)

 

司馬遼太郎『花神』(上中下、新潮文庫)

 明治維新史のなかで彗星のごとく頭角を現わし、軍神とまで呼ばれた大村益次郎こと、村田蔵六の生涯を描いたのが、この作品である。幕末・維新史で活躍する人物と言えば、西郷や高杉、竜馬、大久保らの名がすぐあがるが、大村益次郎は、これらの人びととはちょっと異質な人物である。西郷らが、尊王攘夷の名のもとに大きな変革の大望をもって志士として身を挺してたたかってきたにのに対し、村田は、長州藩の村医者で、大阪に出て緒方洪庵の塾で蘭学を学んだ一介の蘭学者にすぎなかった。蘭学者であるから、身につけたオランダ語によって医学以外の知識、村田の場合は主として軍事知識をも学ぶ機会があった。その知識によって、最初、開明的な君主のいた四国の宇和島藩に取り立てられ、軍事関係の書籍の翻訳やペリー来航直後に米軍艦をモデルにした軍艦の建造に当たる。思想家でも政治家でもなく、いわば技術者である。

 そのうえ、村田は、若いとき緒方塾で塾頭まで勤めながら、医者である父の要請を受けて帰村して流行らぬ村医者になっているように、出世とか世間的な成功にほとんど関心を持たない人間である。しかも、村人が「お暑うございます」と挨拶しても、「夏は暑いのが当たり前です」と、人の心を逆なでするような言葉を返す奇人、対人関係に不器用な人物である。この男が、その軍事知識ゆえに幕府にとりたてられ、さらに幕府を振って長州藩に仕えるようになり、幕府による第二次長州征伐に際して、軍事指揮官として幕府軍を敗走させるうえで抜きんでた軍功をあげる。そして、鳥羽伏見の戦いから、無血開城後の江戸に跋扈する彰義隊の撃滅戦を指導し、さらに戊辰戦争の官軍側の総指揮者として、天才的な力を発揮するにいたる。平時なら絶対にありえない、激動の時代ならではの奇跡ともいえよう。一人の平凡な田舎医師が、どうしてこのような道を歩み、絶頂をきわめるにいたったのか、その謎を事実に基づいて検証しようというのが、この作品の主眼である。

 作者によれば、この男の才能に着目し起用した最大の功績者は、桂小五郎木戸孝允)だったという。木戸は晩年次のように語っている。「維新は初丑(ペリー来航の嘉永6年)いらい、無数の有志の屍のうえに出できたった。しかしながら、最後に出てきた一人の大村がもし出なかったとすれば、おそらく成就はむずかしかったにちがいない」と。大村は、維新の大変革の仕上げ人だったいうのである。ここには、技術ないし技術者が社会変革において果たす役割、という問題があるというのが作者の考えのようである。

 司馬氏の史観によれば、革命には三つの段階があり、それぞれ時の求める傑出した人物が登場するという。最初にまず思想家が現れて非業の死をとげる。例えば吉田松陰である。次いで戦略家の時代になる。高杉晋作西郷隆盛のような存在である。そして三番目に登場するのが、技術者であるという。村田のばあい軍事技術である。哲学とか政治戦略ではなく、先人たちがそれらによって準備しなしとげた事業を技術的にしあげる役割である。村田は、哲学者でも思想家でも、戦略家でもなかった。しかし、西郷も高杉も持ち合わせなかった軍事技術をもって、維新政府への抵抗をうちくだき、新政府の基盤をかためる仕事をなしとげたというのである。歴史のどの時期にどのような人間が必要とされるかという興味深い問題提起である。

 村田は、シーボルトの娘で日本最初の女性産科医となるオイネと生涯にわたる交流があった。京都で刺客に襲われて重傷を負った村田のもとに、横浜から駆けつけて看病し、最期をみとったのもイネである。宇和島藩で村田がイネに蘭学を教えていらいの二人の交流が、本作品のほのぼのとさせられる読みどころともなっている。(2019・4)

 

 

ナディア・ムラド、ジュナ・クラジェスキ-著『THE LAST GIRL――イスラム国に囚われ、闘い続ける女性の物語』(吉井智津訳、東洋館出版、2018・11)

 

 イラクの北部にはクルド人の住む地域がある。住民の多くはスンニ派イスラム教徒だが、シンジャールという山地を中心にヤズィディ教徒の人々がいる。ゾロアスター教などの系譜も引くというこの宗派の人々は、牧畜や農業を中心にひっそりと親密な暮しを営んでいた。この本の著者のナディアも、コーチョという小さな村で母を中心に多くの兄や姉、甥や姪などがいる大家族とともに、貧しいながら幸せな青春の日々を送っていた。ところが、彼女が21歳となった2014年、この一帯にイスラム過激派のテロ集団、ISIS(イスラム国)が侵攻する。

コーチョ村を占領したISIAは、外部との一切の接触を禁じて村人全員を村内の学校に集め、成人男性を一階に、女性と子どもを二階に振り分ける。そして、男性は全員射殺し、若い女性はサビーヤと呼ばれる文字通りの性奴隷として、シリアなどへ送りISIS戦闘員に売る。少年たちは隔離して再教育・洗脳してイスラム国の兵士に仕立てる。ナディアは、男の兄弟も母も殺されたうえ、姉や姪らとともに、サビーヤとして売られ、暴力と隔離のもとにレイプ、集団レイプという残虐非道な暴力にさらされる。ヤズィディ教が、未婚女性の処女性を厳格な戒律としているのを承知の上、しかもイスラム教への改宗をも強要される。

 ナディアは、他のヤズィディの女性たちと同様、耐えがたい苦痛と絶望で死んだほうがましとの思いを抱きながら、この境遇からなんとか脱出しようと、機会をさぐる。ある日、監視の兵士が部屋の鍵を掛け忘れたのを機に隔離部屋から脱出、モースルの街をさまよったあげく、駆け込んだ家の親切なイスラム教徒に救われ、その家族の協力のもとに、偽造旅券を手に入れてモースルからイラク国境を越えてクルディスタンの支配地域に逃れる。たまたま郷里の村に不在だったために生き延びた一人の兄が、そこでナディアを待っていた。この兄、ヘズニは、生き延びたヤズィディ教徒の人々と協力して、性奴隷にされた女性たちの救出活動にとりくんでいたのである。

 以上が、本書で描かれるナディアらイラクのヤズィディ教徒が、イスラム国の大規模なテロによって強いられた悲惨な運命である。ナディアは、クルディスタンにある難民キャンプからドイツにわたり、難民を受け入れるドイツで生気をとりもどす。そして、不幸なヤズィディ教徒を救い、保護するとともに、イスラム国によるテロと人権抑圧を告発し、法の裁きを受けさせるために専心する人権活動家となっていく。ジュネーブで開かれた国際会議に出席し、自分を襲った集団レイプをふくめ悲惨な体験を、勇気をもって報告したのを契機に、その活動は国連はじめとして国際的な規模に広がっていく。

    兄のヘズニも加わるヤズィディ教徒の救援・人権擁護団体であるヤズニという国際組織が、彼女をもその一員として彼女の活動を支える。本書の序文を書いている人権弁護士、アマル・クルーニーや、共著者になっているジャーナリスト、ジョナ・クルジェスキも、そうした運動に深くかかわってきた人たちである。クルジェスキは、ナディアの語りを文章にする役割を果たしていると推測される。こうした人と組織に支えられたナディアの活動は、国際的に評価され、2018年のノーベル平和賞を受賞する。クルドの平凡な一人のヤズィディ教徒の少女が、耐えがたい苦しみと不幸を転じて、みずからを非凡な人権活動家へと変身させた、その勇壮なたたかいに心から敬意を表したい。(2019・4)

 

アライダ・アズマン著『想起の文化――忘却から対話へ』(安川晴基訳、岩波書店、2019・1) ,2018

 原題はDas neue Unbehangen an der Erinnerungskulturである。直訳すれば、「想起の文化への不快」といった意味である。想起の文化とは、ヒトラーナチスによるホロコーストユダヤ人迫害、虐殺というおぞましい歴史を、これに対する反省をこめて記憶し、記念する文化のことをいう。ドイツでは、1980年代以降、こうした文化が社会的に定着しだし、ホロコースト記念碑のような記念碑や歴史博物館の建立、個々の犠牲者を記念するプレート(銘)の道路への埋め込み、追悼集会、メディア、教育でのとりあげなどのさまざまな形をとって独特の文化を形成しているという。同時に、ネオナチ運動に端的にみられるように、こうした文化に対する懸念や反感、批判もみられる。本書は、そうした懸念や不快の言明を取り上げ、分析し、批判するとともに、「想起の文化」が直面しているさまざまな新しい問題をも解明する。

 まず注目したいのは、ドイツにおける「想起の文化」の成立の歴史である。著者によれば、1945年のナチス崩壊のあと、一部の指導者たちは処刑されたが、圧倒的多数のドイツ人はナチス党員として、その体制を支え、ユダヤ人迫害に加担するか、すくなくともそれを黙認してきたにもかかわらず、その責任はいっさい不問にされた。戦後、社会全体としては沈黙、暗黙の忘却が支配し、そうした多数派による社会的調和が保たれ、戦後の再建への同調、順応が組織されたという。それはいわば必要悪といってよいであろう。

 しかし、「これら極度の暴力の経験(ホロコーストのこと――引用者)は、ときが経つにつれて簡単に解消するのではなく、人々のあとを追い、彼らを不意に襲い、事後になって、克服されざるトラウマの性格を獲得する」(39)という。それは、ベトナム反戦運動に参加した学生たちによる1968年の告発、問題提起になっていった。戦争体験のない、ナチスに直接手を貸したことのない若い世代による、沈黙する大人たちにたいする告発である。それは、『忘却』「沈黙」を打破し「想起」をよみがえらせたが、世代間の対話を促進するどころか反対の結果ももたらした。そうしたなかで、「過去」を想起し反省するとともに、ホロコーストユダヤ人迫害の犠牲者たちに社会が本当に心をよせるようになるのは、1980年代になってからだという。これを著者は「克服するために想起する」時代の到来という。

 そして、そうした文化が、国境を越え、トランス・ナショナルの広がりを見せるのが、90年代以降という。これを著者は「対話的に想起する」という。コール首相がポーランドワルシャワ・ゲットーの前に跪いて詫びたのがはじまりで、その後、オーストラリアの首相が先住民にたいする過去の植民地時代における虐待、人権じゅうりんについて謝罪するなどという行為の国際的な広がりと、定着をみせていく。著者は「想起の文化」のこうした歴史的展開をふまえて、これにたいする否定的な見解をひとつずつ論駁していく。

 同時に「想起の文化」は新たな問題にも直面する。一つは、1991年のドイツ再統一とともに、東ドイツで支配したスターリニズム専制支配とそれによる人権抑圧、犯罪にたいしてどう対処するかという問題である。ホロコーストと並べて糾弾する意見に対して、それがホロコーストの特異性、絶対的な暴虐性を見失わせるのではないかという疑問も生まれる。ではスターリニズムにどう対処するかは、ドイツだけにとどまらない問題である。

 ドイツへの移民の流入も、新たな問題を提起する。例えば、ドイツ国籍をもつトルコ人に、もともとのドイツ人と同じようにホロコーストユダヤ人迫害の歴史への責任を分かつことを求めるべきかどうか? ドイツ人として歴史への責任を担ってもらうとしても、そのやりかたは従来通りというわけにいかないであろう。さらに、「想起の文化」の国際的な広がりを今後どう発展させるかも新しい課題である。最後になるが、本書のこうした提起は、日本における過去の戦争責任にたいする、政府はもとより、それにとどまらない国民的な認識と反省の驚くべき遅れを改めて痛感させる。(2019・4)

                                                

 

小川洋子『琥珀のまたたき』(講談社文庫、2018・12)

 この作者は、現実と非現実との境界のような、ひそやかでいとおしく、落ち着いた世界を描くのを得意とする。それにしても、この作品がつくりだすのは不思議な世界である。

 琥珀とは、オパールや瑪瑙とならぶ宝石の一種で、数千万年前の樹液が地層深くに固まった化石で、その内部に大昔の昆虫や植物を美しく閉じ込めていることもときたまあるという。しかし、この作品では、琥珀は主人公の子どもの名前である。姉がオパール、弟が瑪瑙である。その下にもう一人、幼い妹がいたのだが亡くなっている。母は、末娘の死の衝撃から立ち直れず、魔犬の呪いがこの子を殺したと思い込む。そして、猛犬から子どもたちを守るという理由で、別れた夫が残した山荘に三人の子どもたちをとじこめてしまう。塀から外へ出てはいけない、大きな声を出してはいけない、これが母によって子どもたちに課された「禁止条項」だった。オパール琥珀、瑪瑙という名前も、それまでの名前をやめて、あらたに子どもたちにつけられたものである。

 こうして、琥珀たち三人の外部から完全に遮断された暮らしが始まる。母は、猛犬の襲撃から身を守るためとツルハシで武装して毎日仕事に出て行くが、夜勤で帰ってこない日が多い。子どもたちは、山荘にあった様々な図鑑を眺め、読み、そこに描かれた絵をヒントにいろいろ遊びを考えて、演じる。毎日毎日がこうしてすぎていく。しかし、どんなにあたたかく身をよせあっても、埋められない「空洞」をかかえながら、子どもたちは年を重ね、少しずつ成長し、変わっていく。

 琥珀の左目は、琥珀色をしていて、外界を見るのではなく、琥珀の内面を映し出す。そこには、亡くなった妹の姿がはっきり見える。琥珀は、図鑑の空欄に左目にみえる妹の姿を描き込み、ページを重ねる。そして図鑑のページを指でパラパラとめくると、動画のように生きた妹が再現できる。琥珀はそれを母に見せて喜ばせるために、来る日も来る日もせっせと図鑑に絵を描き続ける。

 何年もへてオパールは、少女から娘に成長していく。そしてある日、隠れて存在すら知られなかった裏木戸を開けて、一人の青年が訪ねてくる。母の「禁止条項」はひそかに破られ、オパールと青年のひそかな交際が始まり、やがてオパールは山荘を出ていく。こうして、三人だけの暮らしは幕を閉じる。閉ざされた空間での子どもたちだけのむつまじく楽しく悲しい暮らしとその破綻、そこで作者は何を語ろうとしているのであろうか?

 物語は、はるかに年を経て、山荘から救出されいまは歳老いてある施設で暮らす琥珀、アンバー老人を、同じ施設に同居するピアニストの私が訪ね、接するなかで、アンバー氏の回想をひきだすという設定になっている。アンバーは、図鑑の空欄に絵を描きつづけ、それらを今も大切に保管している。そしてときたま、この絵を紹介する展示会が開かれる。観客5人がかこむなかで、アンバー氏が図鑑のページをめくると、幼い妹だけでなく、母や姉、弟の姿も浮き出てくる。「琥珀のまたたき」にふさわしい世界である。こんな物語を紡ぎだす作者の感性とやさしい心に、拍手を送りたい。(2019・4)