貴堂嘉之『移民国家アメリカの歴史』(岩波新書、2010・10)

 著者は、1966年生まれ、一橋大学社会学教授。『アメリカ合衆国と中国人移民』(名古屋大学出版会)などの著作がある。トランプによる移民排斥や、安倍内閣による劣悪な労働条件、人権抑圧を放置したままの外国人労働者受け入れ拡大などが大きな問題になっているときだけに、時宜にかなった著作として読んでみた。

 アメリカが移民国家であることは承知していたが、その歴史を移民という角度から通して描いた著作には触れたことがなかったので、よい勉強をさせてもらった。著者は、アメリカ移民の歴史をグローバルな視野でとらえ、アジア系移民、とくに中国人移民、日系移民といった角度から考察する。ここに、われわれ日本人にとっては得難い本書の大きな特徴がある。

 アメリカは、人種の坩堝(るつぼ)といわれ、自由の女神に象徴される自由と約束の地とみなされてきた。しかし、その半面には、奴隷労働に支えられた農業があり、黒人差別が根ついてきた。奴隷解放後は,奴隷に代わるように、半奴隷的な待遇で働かされる年契約による白人労働者にくわえ、19世紀後半からは中国系の年季契約労働者が急増する。そして、20世紀にはいると、日系人や、インド、ベトナムなどアジア系の移民が急増していく。アメリカの移民史は、一面ではこれらアジア系移民に対する差別と排除の歴史でもあった。とくに中国人については、中国が半植民地状態におかれたうえ、移民が現地社会に同化せず、チャイナタウンという閉鎖的な社会を形成したことなどもあって、排撃運動がひろがり、1882年には中国人移民を排斥する排華移民法が制定され、中国人の帰化不能となる。この流れが、日系やその他のアジア人にも広がり、「帰化不能外国人」なる範疇が形成され、アジ化系移民にたいする差別と排除がまかり通るようになっていく。

 もちろん差別と排除は、ヨーロッパ人でもアイルランド人や、イタリア、スペインなどいわゆるヒスパニックにたしても、またメキシコや中南米人に対してもおこなわれるが、中国人を中心とするアジア人への差別と排撃は、黒人差別に次いで広範囲に社会に根づいていった。第二次大戦中の日系人にたいする収容所への強制隔離などの人権抑圧の背景には、アメリカ社会のこうしたひずみがあったのである。

 こうした人種差別や排除を克服していく大きな力になったのが、第一次、第二次世界大戦であったという事実も見逃すわけにいかない。戦争になれば、黒人も、ヒスパニックも、アジア人も戦力として動員され、戦場で白人とともにたたかい、国に貢献する。特に第二次世界大戦では、例えば収容所から志願してヨーロッパ戦線へ送られ、大活躍した日系人の442部隊など、非白人の将兵の活躍はめざましく、戦後その社会的地位を向上させずにはおかなかった。しかし、アジア人から「帰化不能外国人」のしばりを完全に解き放つには、1965年の移民法改正まで待たざるをえなかったという。

1960年に88万人にすぎなかったアジア系移民は、2000年には1024万人へと増え、21世紀半ばにはアメリカ最大の移民集団となるという。アメリカにおけるこうした移民の歴史をふりかえると、人種差別をあからさまにしたトランプの移民排撃が、いかに馬鹿げたアナクロニズムかが浮き彫りになる。

 最後に、アメリカにおけるアジア系移民の権利と地位向上に貢献した日系人移民の不屈のたたかいについて、ふれておく。アジア系最古にして最大の人権団体である日系アメリカ人市民連盟(JACL)は、1960年代、アーサーキングらと連携して人種差別、人権抑圧にたいして果敢にたたかった。ハワイ選出上院議員ダニエル・イノウエはその代表者の一人である。(2018.11)

 

映画「華氏119」

 マイケル・ムーア監督の映画「華氏119」を観た。トランプ大統領を生んだ現在のアメリカ社会の一つの断面を知るには格好の作品である。

 冒頭、2016年11月9日(トランプ大統領が誕生した日)の前夜、80数パーセントの確率でクリントンの圧倒的勝利を予言する「ニューヨーク・タイムズ」やテレビキャスターの解説の映像が、当選を確信するクリントン本人の姿とともに映し出される。一方、トランプ陣営は誰一人、勝利するとは思ってもいない。そんな対照的な映像が、トランプ当選の意外性を際立たせている。いったい、アメリカ社会でなにがおこっているのか?その謎を解こうというのがこの映画である。

 ムーア監督自身はトランプ支持地域の取材をとおしてトランプの勝利を予想していたようだが、そこにはアメリカ社会を蝕む衝撃的な事態があった。トランプの先輩格の人物が市長に当選したある都市がとあげられる。そこでは、市長の発意で河川からあらたに引いた水道が水銀汚染されていて、子どもたちが深刻な被害をこうむっていた。にもかかわらず、市長は水の汚染を秘匿し、市民を欺き続ける。これがアメリカでおこっている事態を象徴的にしめしている。

 しかし、それは共和党にとどまらない。民主党員の黒人大統領オバマがこの都市を訪れる。市民は熱狂的に迎えオバマに事態の打開を期待するが、公衆のまえで水道水を飲んでみせるという見え透いたパフォーマンスだけで、市長と和気あいあいの会談をして去ったことに市民は唖然とし失望する。トランプの人種差別発言、セクハラ、移民への口汚い攻撃等々、およそ公職にふさわしくない言動などもリアルに映し出されるが、そんな男がクリントンという超エリートを破って当選する背景に、共和党にとどまらない民主党を含む既成政党への民衆の失望、不信の広がりがあったことを、この映画は痛烈に暴き出している。

 もう一つ特徴的なのは、トランプとヒトラーとの類似性を強調していることである。1930年代のはじめヒトラーが登場し、デマと大衆受けのする扇動で独裁者にのしあがっていく姿を記録映像で紹介しながら、トランプの言動をこれにだぶらせていく。多くの人がそんなことはあり得ないと信じていたにもかかわらず、それが現実になってく、その恐ろしさを警告しているのだ。一つ間違えば、核戦争が現実なる今日の世界におけるそんな危険の存在も、とりあげられている。

 ムーア監督はアメリカ社会のこの現実に絶望しているかと言うとそうではない。生活保護者並みの低賃金と劣悪な待遇の改善をもとめて立ち上がる教師たちのストライキとこれに連帯するタクシー運転手たちのたたかい、学校での銃乱射事件を機に全米にひろがった高校生たちデモ行進、既成の政治家にかわって自発的に立候補する女性たちなど、たたかうアメリカ社会がこの映画のもう一つの主題である。日本のマスコミではあまり目にすることのないアメリカ社会のもう一つ断面を知ることができるのは貴重である。ムーア監督が、アメリカでひろがるこのたたかいに未来への希望を見出していることは明らかだ。「行動をおこせ」、これがこの映画のメッセージである。

真藤順丈『宝島』(講談社、2018・6)

 アメリカ占領下の沖縄を舞台に戦火を生き抜いた若者たちがくりひろげる壮大なドラマとスペクタクルである。米軍との地上戦をガマのなかで体験して育ったオンちゃんを頭とするレイ、グスク、ヤマコの四人は、戦果アギヤ―とよばれるコザのやくざ、窃盗団である。戦果アギヤ―とは、米占領軍の施設から食料や医薬品、雑貨などを盗み出し、飢えた市民に配ったり、病人に医薬品を届けたりする、いわば一種の義賊でもある。沖縄戦終結とともに、命のあった県民の多くは米軍の捕虜になって収容所に入れられ、出てきたら土地も家屋も米軍に接収されて生きていくすべがない。そんななかで米軍相手の売春婦などに身を堕すか、米軍の物資を略奪するかしか生き延びる道がない。戦果アギヤーは、コザの市民からありがたがられ、尊敬もされていた。とりわけオンちゃんは、戦果アギヤ―のリーダーとして、大胆かつ勇猛、冷静、沈着、俊敏で、なかまからは英雄視されていた。わがもの顔にのさばる米軍による暴行、強姦、ひき逃げなどの犯罪があとを絶たず、人種差別が横行する沖縄で、占領軍に対する反感と憎しみが日増しに増幅していく。そんななかで、自然な成り行きでもあった。

 1950年代の初めのある日、オンちゃんたちは、嘉手納の米軍基地に押し入る。どういうわけか、この日は待ち構える米軍に遭遇、必死に逃げてグスクは脱出したが、レイは捕らえられ獄に送られる。ところがリーダーのオンちゃんは行方不明になる。オンちゃんの恋人ヤマコはもとより、グスク、レイによるオンちゃん探しが始まる。その後、グスクは警官になり、米軍の治外法権に妨げられながらも米兵の犯罪を追う。ヤマコは米軍相手の飲み屋で働きながら勉強して教師になる。勤めていた小学校に米軍機が墜落、教え子たちが犠牲になるなどの体験をへて、ヤマコは瀬長亀次郎たちが指導する基地反対闘争に加わっていく。レイは、捕らわれた獄中で瀬長亀次郎に出会う。過激な獄中闘争にも加わるが、釈放後ならずものの世界で反米テロリスト集団に一員になる。

 それにしても、いったいオンちゃんはどこへ行ったのか? いくつかの手がかりから、「予定外の戦果」をかかえて嘉手納基地を脱出したあと、密輸団に身柄を拘束され、その集団の拠点がある離島の悪石島にいたことがわかる。そのとき小さな子どもといっしょだったという。それから数年を経て、グスクやレイ、ヤマコのまえに、ウタというハーフの孤児があらわれる。ヤマコは、言葉を発しないこの子に言葉を教え、施設へ入所の世話をする。1960年代後半、沖縄の復帰運動がたかまり、佐藤内閣のもとで復帰協定へと外交交渉がすすむ。「核抜き、本土並なみ」の復帰で米軍基地から解放されるかどうかが、県民の最大の関心事となる。そんな時、コザで米兵によるひき逃げ事件をきっかけに、反米暴動が勃発する。そのなかにはレイの姿もある。駈けつけたグスコやヤマコのまえで、ウタが米軍に射殺される。三人は、ウタの遺体をいだいて、ウタがよく訪れていたというガマにおもむく。そこでかれらが発見したものは?

 作者は、1977年生まれで、東京で生まれ育っているが、沖縄の風土や伝統、歌謡などによく通じ、それらをふんだんに駆使しながら、米占領下の沖縄の騒然かつ雑然とした、しかし熱気あふれる街の雰囲気をみごとに描き出している。そして、アウトロー同士の抗争や米軍の諜報機関の暗躍などをもおりこみながら、米占領者への憤りと憎しみを募らせながら、占領軍に依存するしか生きる道のない人々の悲哀を、みごとに浮きあがらせている。もともと、ホラー作品などを書いてきた人のようで、この作品にもそうした趣向は随所に見られる。作品はエンターテインメント仕立てだから、その限界は感じるが、沖縄の戦後史に対する視点も的確で才能のある若手として今後の活躍が楽しみである。(2018・10)

 

松本清張『棲息分布』(文春文庫)

 戦後、石油業界に進出して破綻した安宅産業という商社を題材にした経済小説『空の城』(文春文庫)を読んで面白かったので、同じ系列の作品として本書に手をのばした。1966年~67年にかけて書かれた作品である。前作が膨大な資料を駆使して安宅産業の石油事業への進出から破産までをていねいに描き出していて感心したのだが、この作品は、田中彰治や小佐野賢治、児玉義誉士夫らをモデルにしているようだ。しかし、話は経済問題もからむが、その中心は次第にどろどろした男女の関係に移っていき、その意味ではちょっと期待外れであった。

 戦後、一代で財閥を築いた鉄鋼王の菅沼丑兵が、伊東の別荘の大浴場で30人の裸女に囲まれながら突然死をとげるという、ショッキングな話から物語は始まる。この鉄鋼王の話かと思うと、そうではなく、菅沼の影に隠れた存在であった系列会社の社長、井戸原俊敏が表にでてくる。菅沼の東洋鉄鋼は、実は粉飾決算などで覆い隠していたが経営危機にあり、多額の出資でそれを救っていたのが井戸原であったからである。井戸原は、菅沼につぎ込んだ資金の返済を次代社長にせまり、系列の建設会社などを譲渡させるとともに、次期総理大臣候補と言われる政務次官に接近して、政界との太いパイプを力に建設業界に乗り出そうとする。井戸原はいったいどこから莫大な資金を手に入れたのか。その謎が一つの柱である。

 井戸原は自分の経歴を明かさない。彼は戦時中、軍需省で軍属として働いていた。敗戦直前に省の上層部と組んで膨大な軍需物資の横流しをおこない、それによって得た富が戦後経済界に進出する資金源となったのである。この井戸原の過去を知っている人物が一人いた。井戸原の会社の根本常務である。根本は、戦時中憲兵将校で、井戸原らの軍需物資横流しを察知し、重大軍事犯容疑で井戸原らを拘束して取り調べ中に敗戦をむかえる。捜査はうちきられ井戸原らは釈放される。この弱みを握られた井戸原は、自分の社の常務として根本を遇し、一番の側近として相談相手にしていたのだが、社会的地位が高まるにつれ、根本を次第に疎んじるようになる。そのことを察知した根本は、井戸原に対して逆襲をくわだてる。これがこの作品の最大のテーマである

 井戸原には初子という妻がいる。旧華族の血を引く名門の出である。井戸原は初子の他に、美奈子という女優をホテルに囲っているが、これに飽きて若い女優である瑞穂高子にのりかえつつある。一方、初子にはプロ野球の選手で山根という青年の恋人がいる。二人が香港へ旅をしている最中に、スポーツ記者の森の目にとまり、スキャンダルのスクープ種にされかかる。元憲兵の根本は、森を買収するなどしてこれらの事実をつかみ、それを材料に井戸原をゆさぶりにかかる。夫に浮気をさとられる危険を感じた初子は、山根に手切れ金をわたして関係を断つとともにともに、山根が瑞穂高子とつきあっていることをつかんで、山根と瑞穂の縁談のまとめ役を果たし、その結婚の媒酌を井戸原とともに買って出る。こうして、自分と夫の愛人を結婚させることで、自分たちの不倫の発覚を抑えるというのだから、不徳の極みである。井戸原に対する根本の追及、追い落とし作戦は、井戸原の経歴や男女関係のスキャンダルを活字にして流すことで成功するかにみえたが、そうはいかなかった。根本は、森田に書かせた暴露文をマスコミや政財界要人に送り付ける。その結果、根本の期待は完全に裏切られる。後半はこの男女の入り乱れた関係に筆が流れて、私の興味からは外れていく。(2018・10)

 

松本清張『空の城』(文春文庫)

 10大総合商社の1角をしめていた安宅産業が、カナダのニューハンプシャー州のカンバイチャンスに巨大製油所NRCを建設して石油事業に乗り出したが、第4次中東戦争による原油価格の暴騰に遭遇するなどして破綻、伊藤忠商事に吸収合併されたのが、1977年である。3500人が働く大商社が突如として姿を消した戦後日本経済史上の大事件であった。この事件を題材に、その翌年『文芸春秋』に連載されたのがこの作品である。安宅産業が姿を消すまでの全過程とその真相を、現地取材をふくむ克明な調査をふまえて徹底的に究明、渾身の力をこめて描きあげている。日本の古代史をテーマにした作品でも、『日本の黒い霧』をあばく昭和史シリーズでもそうだが、この作者の取材、調査への全力投球にはただただ敬服するほかない。アメリカ、カナダ、イギリスなど国際的な舞台で繰り広げられた複雑で奇々怪々な経済事件の全容を、それが明るみになった翌年にこのような作品に仕上げたのだから驚くほかはない。

 江坂産業(安宅産業)は、レバノン系のアメリカ人起業家、投機家アルバート・サッシン(実名はシャヒーン)と組んで、カナダ・ニューハンプシャー州直営の石油精製所の代理店として石油事業に参入する。BP(ブリティッシュ・ペトロリウム)などが君臨する石油帝国への新たな参入である。無人の地に突如現れた巨大な製油所の開所式は、豪華客船、エリザベス・クイーン号を借り切って現地へ乗りつけるというスタンドプレイで華々しく幕を開けた。主宰者のサッシンはもとより、江坂の河合社長、米沢副社長もタキシード姿で出席、イギリスの元首相のチャーチルの息子など各界の著名人も多数参加する。なかでも立役者は、江坂の系列会社、江坂アメリカの社長である上杉二郎である。日系二世で英語が堪能、サッシンと特別に親しく、この事業を立ち上げる立役者となった。NRCの製油所は、当面日産10万バーレル、第2、第3の製油所の建設も予定しており、ゆくゆくは日産30万バーレルを見越している。イギリス資本のBPから原油を買って大型タンカーでカンバイチャンスまで運び、ガソリンなどに精製してアメリカ、カナダなどに売りさばく。前途はようようたるものと期待された。

 ところが開所祝賀会の最中に第四次中東戦争勃発のニュースがとびこんでくる。江坂が購入する原油価格は暴騰、一方、製油所では最新式の設備の操作不慣れから事故が続出、加えて従業員のストライキが勃発、予想もしなかった赤字が続き、その額はたちまち数億ドルに膨れ上がっていく。江坂産業は、新興企業だが、社内は創業者のワンマン経営時代からつづく派閥抗争などで近代的な経営になっていない。そのうえ、創業者のあとを継いだ現社主・江坂要蔵は、白磁などの骨董に熱中していて、業務には背を向けている。それでいて人事権だけは握って離さない。そういう経営体質もあって、石油事業での失敗による打撃に歯止めがかからず、経営破綻へと追い込まれていく。作者のていねいな筆でその顛末が克明に描かれていく。

 多くの登場人物のなかで、詐欺師まがいの起業家アルバート・サッシン、野心を募らせる上杉二郎、そして、骨董に夢中になって事業を顧みない江坂要蔵と、この3人に作者の的はしぼられていく。サッシンはレバノン人であるため、アメリカ社会でユダヤ人のように差別されてきた。上杉もハワイ系二世としてさげすまされてきた経歴をもつ。こうした境遇をバネにのし上がる人間と、大企業の創業者の跡継でいながら、自分の趣味だけに生きる要蔵と、この3人の対照的な生きざまに向ける作者の眼には、学歴の無い石版工として下積みに苦しんだ作者自身の体験が重なっているといえようか?(2018・10)

浅田次郎『長く高い壁』(角川書店)

 日本ペンクラブの会長を務めたこの作家の作品をこれまで一度も読んだことがなかった。日本がおこなった戦争の実相に迫るという新聞書評を見て、読んでみようという気になった。それなりに面白かったが、いま一つ印象が薄いのはなぜだろうか?

 舞台は1937年、日中戦争が本格化する時代である。売れっ子の推理作家の小柳逸馬は、従軍作家として北京に派遣される。北京ではなすべきこともなく、見聞した街の様子をエッセイに書くが、川路という検閲担当の若い中尉に書き直しを命じられる。左官待遇とされる従軍作家の軍内での立場を改めて認識させられているとき、前線への派遣を命じられる。行く先も目的も一切伏せられたままで、同行は川路中尉だけである。いったい司令部はなにをたくらんでいるのか?

 北京から車で半日かけ着いた先は、満州との国境近く、万里の長城の壁がある張飛峰というところである。ここには1000人規模の日本軍が駐留していたが、支配圏を「満州」から中国東北部へ拡大しようとする日本軍が、その中心になる作戦、武漢への攻撃、いわゆる武漢作戦を開始したため、部隊の主力はこの作戦に投入された。残されたのは、士官学校を卒業したばかりの若い将校と戦力にならない老病兵と犯罪歴などを持つ問題兵30人だけである(ほかに若干の憲兵部隊は残る)。この30名は、三班に分かれて、交替で万里の長城にある陣地などを守っていた。ところが、そのなかの1班の10人がある日毒殺らしい変死体で発見される。現地の憲兵隊長らは共匪の仕業として処理しようとするが、現地の憲兵隊を実質的に指揮する小田島曹長は不審に思い、懇意にしていた司令部の将校に通報する。残留部隊内の不祥事を内密に調査し、処理しようというのが司令部の意向であった。探偵作家の小柳が張飛嶺に派遣されたのはその仕事のためだったということが、次第にあきらかになってくる。

 小柳は、川路中尉や小田島曹長と協力して兵士の聞き取りから事件の調査にあたるのだが、残された小隊の実態は、これが日本軍かと目を覆いたくなるばかりである。武漢へ派遣された部隊の主力は、大量の兵器、弾薬、食料、医療品などを残していった。残留部隊のなかの幾人かは、これらの遺留品を現地住民に密売してたっぷりともうけて遊興にあてるなど、軍紀の弛緩どころか、犯罪者集団にも劣らない腐敗、堕落の極みといった事態が広がっている。

 それにしても、毒殺だとするとだれがどこから毒薬を手に入れ、どういう処方で殺害におよんだのか? そもそもこの犯罪は分隊内部の腐敗した兵士同士の抗争によるものではないか? 謎は深まる。そんななかで、現地住民に尊敬されている医者が疑われて憲兵隊長に射殺される。ところが、この殺人は、実はもっと深いところでくわだてられていたことが最後に暗示される。

 こうして、戦線を中国全土に広げ、そのためにあきらかに兵士不適格者まで動員していった日本軍の実態が赤裸々に描かれ、さらに自軍の兵士たちの命をもてあそんで恥じない軍指導部の非人間性に迫っている。軍内部の暴力や人権じゅうりんなどは、これまでもそれなりに書かれてきたが、非行、犯罪者集団と化していく日本軍の内部の実相にまで迫った点では、ユニークな作品である。ただ、せっかく派遣された探偵作家、小柳の影が薄く、事件の解明にどういう力を発揮したのか、抽象的な言葉で説明があるだけで定かでない。そもそも、軍隊のなかでは自由に行動もできない従軍作家を軍内の不祥事解明のために派遣するという設定そのものに無理があったのではないか、というのが、私の率直な感想である。(2018・9) 

 

村山由佳『風は西から』(冬幻社)

 作者は『ダブルファンタジー』など恋愛小説をもっぱら書く人と思っていたら、ブラック企業をテーマにした社会的な作品を書いたというので読んでみることにした。

 和民をモデルにしたとすぐに推定される外食系大手企業・山瀬に働くまじめで責任感の強い元来快活だった青年、健介が、肉体的にも精神的にも疲労困憊し、ボロボロになるまで追い詰められてマンション6階から投身自殺する。その一段一段を恋人で食品メーカーの営業部に勤める千春という女性の眼をとおしてリアルに描き出している。

 もともと過重労働でデートもままならない状況に置かれていた健介は、ある繁華街の店の店長に就く。人手不足を解消するための人員補給を何度本店に要請してもなしのつぶて、始業2時間もまえに出勤して開店の準備にあたり、閉店後もアルバイトを帰した後深夜まで残業、終電に間に合わず、職場のソファーで夜を明かす。たまの休日には、本店の企画する研修がびっしり、建前は自主参加だが事実上の強制、終わればレポートをまとめなければならない。

 そのうえ、一日の売り上げが本店の定めた業績ラインを割るようなことがあれば(これをテンプクという)、一番忙しい土曜日の朝、本店の呼びつけられて、20人もの役員の前で徹底的につるし上げられる。暴力こそふるわれないものの、すべての人権と人間の尊厳を踏みにじる集団リンチである。二度とこんな目にあわないないために、出勤簿から自分の勤務時間を自発的に削ったり、アルバイトを所定の時間前に帰宅させたりして人件費を浮かせる。そのぶん、深夜におよぶ自分の残業でカバーする。

 健介はこうした過酷な労働によって心身ともに蝕まれていくのだが、その一歩いっぽを心配しやきもきし、みずからも傷つきながら見守る恋人の視点で描いているところに、この作者らしいところがある。そしてそのことによって、問題の深刻さと残虐さがよりリアリティをもって読者に迫ってくる。たとえば、健介の自殺の直前に「健ちゃんなら頑張れる」と励ました言葉が、自殺への残酷な後押しになったのではないかと、千春は自分を追い詰めざるを得ないのである。

 健介の実家は、広島で地域に愛される飲食店を経営している。大学で経営学を学び、就職先で経験を積んで両親の店を継ぎ店の規模も広げたい、というのが健介の夢であった。両親もそういう息子を自慢に想い、期待もしていた。健介の死にたいする会社の対応にどうしても納得できないのは、千春だけでなくこの両親であった。3人の必死の努力で労災は認定されても、会社は健介の死にたいして会社としての責任を認めず謝罪もしない。会社側のかたくなな態度で調停も不調に終わり、何年にもおよぶ裁判闘争にもちこまれる。しかし、弁護士の協力によるマスコミへの対策も効果をあげ、ブラック企業のイメージも広がり、山瀬は次第に追い詰められていく。創業者でワンマンの社長が、ついに頭をさげ、裁判は勝利に終わる。

 モデルとなった事実がそうなのだが、ブラック企業の犠牲になる若者の悲劇にとどまらず、これを告発し、たたかい抜き、勝利するまでの苦闘がえがかれているところに、この作品の大きな特徴がある。恋愛ものをもっぱらにしてきた作者がよくぞここまで書き抜いたものと感服し、敬意を表さないわけにいかない。そのたたかいのなかでは、ブラック企業で働く労働者の協力、内部告発が大きな役割をはたしている。千春のたたかいを温かくみまもる職場の同僚たちの存在も見逃せない。働く人たちの連帯が、そこに生き力を発揮しているのを確認できる。こうした作品が民主的な陣営の書き手からこそ、もっともっと書かれることを期待したい。(2018・9)