ヴィトルト・ピレツキ『アウシュヴィッツ潜入記――収容者番号4859』(杉浦茂樹訳、みすず書房、2020・8)

 原題は、“アウシュヴィッツ志願者―-勇気を超えて”である。アウシュヴィッツなどナチス・ドイツ絶滅収容所から生還した人たちによる体験記はいくつもあるが、本書は、自発的にわざわざ捕えられて入所し、収容所内で抵抗組織をたちあげ、武装蜂起の準備をしつつ、命がけで脱出した人物の記録である。筆者はもともと独立国ポーランドの軍人(大尉)であり、ナチス・ドイツソ連によるポーランド分割(1939年)によって祖国が独立を失ったのちは、非合法の抵抗軍事組織に属し、そこの任務として自発的にアウシュヴィッツ収容所に非拘束者としてもぐりこんだのである。収容所の内情を報せること、収容者を極秘裏に組織すること、収容所奪還の準備をすることが任務である。もちろん仮名をなのり文字通り命がけである。期間は、ワルシャワナチスによって陥落させられた39年9月27日の直前、9月19日にSSに拘束されてから、43年8月23日にワルシャワに戻るまでの3年間である。
 ピレツキは、収容所内からも内情を報せる報告を送っているが、本書に収録されているのは、脱出後の1945年、イタリア滞在中に抵抗組織の司令官にあてて書いた長文の報告書である。次の任務に就くため時間がなく、推敲されないままであり、対外的に発表を前提に書かれたものではない。しかし、確とした目的をもって意図的に潜り込んだ人間にしかできない、詳細な報告は、収容所の実態をきわめてリアルに知らせるとともに、言語に絶する危険と困難ななかで、抵抗組織をつくり、まもりぬく人々の勇気と人間性を浮き彫りにして、ただただ頭が下がるのみである。
ピレツキは、収容所脱出後、1944年のワルシャワ蜂起に参加、ソ連軍に逮捕されて終戦を迎える。そして、ポーランドの解放後、ソ連スターリン政権支配下共産党を名乗る政権のもとで、スパイ容疑で1948年5月に処刑されている。共産党を名乗る政権と対立する亡命組織に属していたためである。そのため、この報告は、長く日の目を見ることができなかった。2012年になってはじめて、ヤレク・ガレリンスキーという人によってアメリカで英訳され出版された。そうした事情のため、私たちはこういう人物が存在したことすらまったく知らないまま過ごしてきたのである。それだけに、この報告とともに、アウシュヴィッツ収容所内でこのような人たちによる抵抗組織がつくられ不屈のたたかいが繰り広げられていたことに、ただただ驚きを禁じ得ない。
 内容については、実際に読んでいただくしかないが、若干のことを紹介する。まず収容者は、ピレツキが入所したころにはポーランド人の政治犯が大半であった。囚人にたいする暴力は日常茶飯事で、規則に違反したり気に入らなければ、衆目の前で撲殺、銃殺、絞殺が繰り返される。極度に寒冷な屋外での作業にくわえて、劣悪な食事、不衛生によるチフスなどの伝染病の蔓延で、収容者は次々に命を落としていく。1941年6月に独ソ戦が始まると大量のソ連兵捕虜が入所してくる。同年11月には1000人以上のソ連兵が焼却炉に送り込まれなど。そして、42年に入ると、ヨーロッパ各国からのユダヤ人が送り込まれ、収容される。そして、ガス室が設置され一度に何百人もが抹殺される。その人々が所持していたり、その人たちあてに送られてくる食べ物や衣類で、ポーランド人収容者らは飢えや寒さをしのげるようにもなる。ピレツキらは、ひそかに5人一組の組織をたちあげ、その輪を広げていく。43年ごろには収用所を奪還できるほどの組織になるが、軍事組織のため上級の指示がない限り蜂起は踏みとどまる。
 ピレツキによるとアウシュヴィッツでの死者は、筆者の脱出時で収容者番号をつけられた正規の収容者12万1000人のうち、他に移送された2万3000人をのぞく、9万7000人。ほかに、収容所に入る正式の手続きを経ることなくガス室に送られ、焼却されたものが、200万人にのぼるという。(2021・5)