桐野夏生『ロンリネス』(光文社文庫、2021・8)

   作者は日本文芸家協会の会長である。先に言論抑圧が支配する社会を描いた『日没』を読んだので、本書(2018年に単行本で刊行)が文庫化されて書店の平台に積み上げられているのを見つけて購入する気になった。テーマは一転して、夫婦間の不倫の話で、『ハッピネス』という作品の続編である。

 『ハッピネス』では、主人公の有沙が既婚歴のあることを隠して結婚した相手の俊平が、アメリカ出張中に若い女子大生と深い関係になり、そのうえ音信不通となって、すったもんだするが、最後は元のさやに戻って結婚生活を継続することになるという話で、“ハッピネス”である。続編では、有沙は花奈という来年小学校に入る娘を育てている。ママ友で親友の美雨ママこと洋子が、同じくママ友仲間のいぶママこと裕美の夫であるハルと不倫関係になり、ママ友仲間から排除されるだけでなく、夫から離縁され、幼い娘の親権も夫のものになり、そのうえ、不倫相手の妻はかたくなに離婚を拒否、しかも洋子の妊娠が明らかになると不倫相手は腰が引け、中絶を懇請する等など、絶体絶命の悲惨な顛末を迎える。

    一番の親友として、修羅そのものである事態をすべて打ち明けられ、目の当たりにし、洋子に厳しい忠告もしながら、有沙自身がひょんなきっかけから、住んでいるタワーマンション28階のすぐ下の階に住む男、高梨と付き合いだし、あれよあれよという間に深い関係に陥っていく。もちろん有沙は。深みにはまればどういう事態に追いやられ身の破滅をむかえるかを、親友の洋子をつうじて、百も承知であり、自戒もし、高梨との間でもこれ以上の深い関係にならないよう互いに自重を確認しあいもする。しかし、二人の仲の進展はどうにもならない。

 その背景には、これまでの経緯もあって夫との間が絶えずぎくしゃくしていて、有沙が家庭に平安と落ち着きを見出すことが出来ないという事情もある。例えば、娘の花奈を私立の小学校に入れたいという有沙の願いを、俊平は聞き入れようともしない。それどころか、家賃の高い東京湾岸のタワーマンションを引き払って、自分の実家で母親が住んでいる町田市に引っ越して、花奈を自分が卒業した公立小学校へ入れようという。俊平の母と日ごろからしっくりいかない有沙にとって、耳にするのも嫌な提案である。そんなこんなでぎくしゃくする夫婦関係に神経をすりへらしている有沙にとって、くったくなく何でも打ち明けられる高梨は、いまひとつ人物がよくわからないとは思いつつも、ぐんぐん魅きつけられていく。理性ではどうしても抑制できない。もちろん、高梨には立派な仕事を持つ妻がおり、同じマンションであるからスーパーでの買い物のおりなどで顔をあわせ、会話を交わすこともある。花奈と同じ年代のこどももいて、花奈のかよう保育園への入所について相談を受けたりもする。自分たちの行為が、自分の夫や娘だけでなく、相手の妻や子どもへの最悪の背信であることも、有沙はじゅうぶん承知している。

 高梨には、これまでにも数々の女性関係があり、妻は高梨の挙動には極めて敏感である。有沙らが一線を越えたとき、高梨の妻はただちに異変を感知し、有沙との関係を疑い出す。もはや絶体絶命、最悪の事態は目前である。お互いの破局を避けるにはどうしたらよいか? 二人は思案のあげく、一つの妥協案に到達する。お互いの家庭生活はそのままつづけながら、二人の関係もごくごく限定しながらつづけるという策である。俊平の実家近くにマンションを購入して有沙一家が引っ越すというのも、そのなかにふくまれる。

 この作品はそうした折衷案にたどり着いたところで終わっている。しかし、問題が解決したわけでない。おそらく一時的な危機回避にすぎないであろう。はたして有沙たちの運命はいかに、問題は読者に投げかけられたままである。愛とは、夫婦とは、家庭とは?(2021・9)