平野啓一郎『本心』(文芸春秋、2021・5)

 同じ作者の作品に『ある男』がある。愛する夫の死後、夫が名乗っていた人物とはまったくの別人だったことがわかる。果たして本当は誰だったのか、というミステリー仕立ての作品だが、本書はその延長線のような作品で、生とはなにか、死とは何か、そもそも人間とはなにか、といった根源的な問題に迫る力作である。

 舞台は今から四半世紀後の近未来社会。AIの進歩、普及によって、ロボットや仮想空間の利用がごく一般化している社会で、現実と仮想空間との区別がつきにくくなっている。主人公の朔也は30歳の独身者で、リアル・アバターという職についている。リアル・アバターとは、依頼者の分身となって指示通り動くことで依頼者にかわって体験を共有するという仕事である。たとえば、死ぬ前に故郷の小樽にある自分のかつて住んでいた家を訪問し、周囲の景観をいま一度眺めたい、という依頼者の願いに応じて実際に小樽の家を訪ね、周囲を眺め、その映像や音声をそのまま依頼者に伝えるという役を務める。いわば代行業で、高校中退の主人公が職を転々とした結果、やっとありついた仕事である。

 母一人子一人という環境に育った朔也にとって、母はただ一人の肉親であり生きる支えでもあった。ところが、この母が70歳にもならずに「もう十分」ということばとともに、“自由死”を選択したいという。“自由死”とはしかるべき理由があれば自分の意思で死を選択できるという、この社会の制度である。貧しい暮らしのなか自分を残してなぜ「もう十分」なのか解せない朔也が猛反対しているうちに、母はたまたまの事故で亡くなってしまう。

 ここからが本題で、生きる希望も失って茫然自失となった朔也は、専門業者を訪ね、母のVFの制作を依頼する。母のVFとは生きていた時の母そっくりに作られた仮想空間での<人物模型>のことである。AI技術の進歩により、生前の母の記録や情報を学習させることによって、姿形だけでなく生きている母そっくりに動き話しもする。いわば母の分身である。孤独な主人公は、仮想空間でこの<母>を見つめ対話することによって、悲しみを癒しみずからを慰めるとともに、母がなぜ「もう十分」と考え“自由死”を選択しようとしたのか、その謎を解こうとする。母が生前親しくしていた女性とやはり仮想空間で対面したり、実際に会って話を聞くなどということもおこなう。母がいつも愛読していた作家が、実は若い時の母と親しく付き合っていたことがわかり、この人を訪ねもする。

 こうして母の「もう十分」の真意をさぐっていくうちに、疑問はそこにとどまらなくなっていく。果たして、母と自分の関係は、今まで自分が考えていたのとはまったく違う側面があるのではないか。訪ねた作家からは、「最悪の人の他者性と向き合うあなたの人間としての誠実さを、ぼくは信じます」との言葉をもらう。しかし、なぜ母は「もう十分」と考えたのか。「もう十分」には、幸せで満足して「もう十分」という場合もあるが、貧しさ、みじめさで耐えがたくなっての「もう十分」もある。母の場合、前者とは考えられない。とすれば後者だが、生きていられないほどの苦しみを母はかかえていたのだろうか。だとしても、本人をそこまで追い詰めるのは、本人の責任ではなく、貧富の格差、低賃金、劣悪な労働条件を強いる社会そのものにこそ責任がある。そうした社会を変えることこそ大事で、そういう境遇に置かれた人に「もう十分」と死を選択させるのをよしとするわけにはいかないのではないか。多くの人々が不幸から逃れられずに、ヴァーチャルな仮想現実の世界に逃げ込んでそこに救いを求めるようになっている。このような社会のありかたそのものにもっと目を向けるべきではないか?問題は、こうして際限もなく広がっていく。はたして生きるとはそもそもどういうことか? 人間とは、社会とは? そうした根源的な問題の提起に、この作品の真価があるのではなかろうか?(2022・8)